独学で東大教授になった著者が語る「情報過多時代の正しい頭の使い方」

情報を持っていることに価値がある時代があった。しかし、現在のように多すぎる程の情報が手に入る時代は、その情報から如何に本質を嗅ぎ分けられるか、そしてその本質をつなぎ合わせて自分に必要な、他者にはまね出来ない芽を育てていけるかが問われています。高校大学と独学で学んできた東京大学経済学部教授、柳川範之(やながわのりゆき)氏に、今求められる頭の使い方をとことん聞き取らせていただきます。

東大教授が教える知的に考える練習

父親の海外勤務で独学の道を選択

ー 書籍『東大教授が教える知的に考える練習』の帯に書いてある「独学で東大教授になった著者」という部分について。これだけですごいと感じるのですが!

経歴からお話ししますと、父の仕事の関係で海外勤務が多く、本当だと高校に行けなきゃいけない時に、ブラジルに行くことになりました。高校は日本人学校も無かったので、ポルトガル語で授業を行う現地の学校には行かずに、日本から参考書と問題集を全部船便で3年間分を積み込んで独学で勉強していたのです。

勉強していたと言っても、かなりの部分リオデジャネイロのビーチで寝転んでいた感じなんです(笑)。これが4年半ぐらい続いて、私たち家族が日本に戻ってきたタイミングで、大学入学資格検定試験(現高卒認定試験)を受けました。その後、父親がシンガポールでの勤務になったので、今度は慶応大学の通信教育課程をシンガポールで受けることにしたのです。通信講座でしたので、これもほぼ独学でした。ですから、高校と大学の時が独学だったんです。

暑さに耐えて学んだスクーリング、それより熱い学友たち

ー 慶応大学の通信教育というのはどういった仕組みですか?入試はあるんですか。

一応僕の時も書類選考がありましたけど、ほぼフリーパスでした。当時に比べて今はもう少し難しくなったと思うのですけれど、僕らのころはほぼフリーパスで、その代わり卒業するのがすごく大変。入るのはすごく簡単で登録はできるのだけれど、試験を受けて単位を取って、卒業するのがすごく大変という感じでした。ですので、僕はセンター入試とか一度も受けたことがないんです。大学入試自体まったく受けたことがないので、経歴としてはだいぶ変わっています。

ー その通信教育の間もずっとシンガポールにいたのですか?

シンガポールにいました。それで、1年に一度スクーリングというのがあるんです。夏休みの期間に20日間ぐらい、三田と日吉のキャンパスで授業を受けるんです。その時には日本に帰って授業を受けました。あの頃はまだ慶応の三田キャンパスとかに冷房が入っていなかったので、暑さが大変でした。本来は夏休みなのですから、暑くても問題無いだろうという感じだったのかもしれません(笑)。

そんな中で授業を受けるんですから、もう汗だくでスポーツドリンクをみんな必ず持参していました。一応、扇風機が教室の中に運びこまれているんですけど、それは先生のほうを向いていました。当たり前ですけれど。先生の方が暑くて大変なんですから(笑)。

周りはいわゆる社会人の方々で、僕だけがちょっと特殊なケースです。社会人なのだけれど、勉強して大学卒業資格を取りたいだとか、あるいはもともと別の大学の学部の資格は持っているのだけれど、別の学部の学士を取りたいだとかで、勉強している方々ばかりでした。当時の慶応のスクーリングの受講生の熱心な授業は、今まで見た中でも一番真剣でした。

ああいうのが学びの真の姿だなと思います。みんな強制されているわけではなくて、自分から学びに来ていて、しかも社会人なのに夏休みに来ているということは、夏休みと有休をそこで使い果たすわけです。勉強するために夏休みを全部犠牲にしてしまうぐらいの意気込みで来ている人たちだったので、それはすごく熱心でした。僕は普通の大学生でしたが。

柳川範之

目指していたのは会計士、そして経済学への転身

ー 通信教育ですと、大学卒業まではどのくらいの期間かかるのですか?

それぞれの人の進み具合によって期間はまちまちです。最短は4年間で卒業ですが、僕の場合、大検の合格発表が9月にあって、10月入学という流れでしたので、形式的には4年半かかって3月に卒業しました。その後は、東大の大学院に行くわけなんですけど、東大の大学院に行く前は、実は公認会計士の資格を取ろうと思っていたんです。

やはり独学で会計士の勉強をはじめたんですけど、試験の科目に経済がありまして、勉強しているうちにだんだん経済が面白くなってきたので、少し「経済学でやっていこうかな」みたいな感じになって途中から目標が変わったんです。会計士の講座にはTACと予備校があって、予備校には特別にお願いしてシンガポールまで、通信の講座を送ってもらってたんですけど、目標が変わってからは、1年間全くやらなかったので、通信の教材が家にたまってしまいました。

怠け過ぎるとやる気になる

東大の大学院に行くことになるんですけど、その前に「東大の試験を受けるんだったら東大の授業を聞いた方がいいよ」って、当時東京大学の大学院生の人にいわれて、それは先ほどの4年半の最後の1年ぐらいの時ですから、大学3年の夏休みです。東大の授業を聞きにいったんです。

ー 高校生の頃から、独学で7年ぐらい勉強されてきたわけですね。それはものすごく自分を律しないと、ダラけてしまうと思うのですけれど、どの様に気持ちを持っていったのですか?

そんなに自分で律している感じではないですよ。本にも書きましたけれど、大体が結構怠け者なので、自分が思っていた目標の10%ぐらいしか実現していません。こういう経歴を話したり、本なんかで書いたりすると、すごい自己規律が働く人間なんじゃないかと思われるのですが、全然そんなことないんです。

ただ、あまり怠けていると「これじゃまずいんじゃないか」と思って少しはやるんです。人間ってそんなもので、ある程度のところまでくると、少しはやらないといけないなって思いだすんです。だから、本当は子どもに対しても、ずっと放っておくと逆に本人が「こんなに放っとかれて…」「こんなに遊んでいいの?…」「大丈夫かな…」って不安に思いだして、自分からやりだすものだと思います。とはいえ、自分も子どもがいますが、ついつい親としては、そこまで黙っていられず口を出しちゃうんですけれどね。

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正解なんてないから、判断基準もない

ー 著書『東大教授が教える知的に考える練習』の中のコラムのひとつで、判断基準をどう選べばいいのかについて触れています。もう少し深くお聞きしたいのですが。

決められないとか、判断基準がなかなかわからないというのは、よく聞く話ですけれど、そんなものは、最初は誰も持っていないと思うんです。例えば、お昼にお弁当を食べるというときに、唐揚げ弁当と鮭弁当があったら、「どっちがいいですか?」「どうやって選んだらいいですか?」「どう決めたらいいですか?」と言われたらどう答えるでしょう?

そんなの好きな方を選べばというのが実際のところだと思うんですが、もしどっちが好きかよくわからないなら、まず食べてみるしかないですよね。食べてみる前にじーっとにらんでいても、(鮭弁当と唐揚げ弁当を食べたことがないとして、あるいはそのお弁当屋さんのを食べたことないとして)どっちがいいかわからないでしょう。

「私の中でなかなか良い判断基準がないんです」というのも、実はそれと同じようなことなんです。実は判断基準というのは最初からあるものではない。悩んでる暇があったら、まず食べてみて、おいしければそれを食べればいいし、良く分からないなら両方食べてみて、それからどっちが好きかを選べばよい。それと同じように、いろいろ試してみた結果、各自にとっての良い判断というのができるようになるんです。

柳川範之

結局全てのものに対して、やってみる前に間違いない判断をしようとか思うから、「正しい」判断基準が欲しくなるし、そういうものがきちっと形成されないと決めちゃいけない気になる、でも実は、そういうことはなくて、自分がある程度やってみて、決めてみて、そこからその判断基準というのが形成されてくるんです。順序が逆なんです。

この話の裏側に、もう少し本質的なことがあると思っています。みんなが「判断基準が必要だ」とか、「どっちが本当にいいんでしょう」と言う時は、どこかに何か「正解」があって、誰かが「そっちを取った方が正解で、こっちは間違ってます」みたいなこと言うんじゃないかと思っているんです。あるいは世の中そういう風に決まってるんじゃないか、ある種の正解がどこかにあるんじゃないかと言うふうに、みんなが考えがちな傾向の表れだと思うんです。

今はお弁当の話を出したので、お弁当にはどっちが正解とかないから、好きにすればいいんじゃないのって、皆自然に思えるのです。でも、本当は他のことでも、ほとんど好きに選べば良い話なんです。本当は、どこの高校に行くとか、文系に行くとか、理系に行くとか、どこの会社に行くとか、転職するとか言うのも別に好きな方を選べばいいし、選んでダメだったら、また選び直せば良いのです。

だけど、ずっと受験勉強をやってきて問題を解いていると、問題には正解があるんです。AかBかCか選択しろといわれてAを選ぶと、正解はCだと言われたりするわけです。絶えずそうやって、自分が選んだ後に、誰かが正解を提示する。あるいは、正解が最初から決まっていて正解じゃないと×って言われて、もう一回選び直すことになる。

こういう経験をずっと積んできていると、みんな自分の選択の結果に正解があるって考えがちになるんです。この傾向が全てのことに通じているので、誰かに自分の就職先を決めてもらいたいとか、自分の就職先を誰かにそれ正解でした、または間違っていましたっていう〇×をつけてもらいたくなってしまう。でも正解は本当はないんです。

実際、社会人の人は仕事をしていると、どういう風に仕事をやっていくかに正解はないと実感していると思います。仕事をどう拡大させていくかとか、だれに次インタビューに行くべきかなんていう問いに正解はないですよね。

弁当選びから始める、本当の頭の使い方

ー ずっと正解を探して人の意見を聞きに行って、いつまでもどうしていいかわからずに考えがブレてしまう人が多いと思うのですが、「とりあえずやってみる」ということですね。

そうなんです。結構、周りがどう判断しているかを気にしてしまう。鮭弁当と唐揚げ弁当を置いてあって、鮭をとったのに、クラスメートがみんな唐揚げ弁当とっていると、あれ「間違った」、皆と違ったものをとってしまったと思ったりする。そういう「皆と同じ」というところに基準を置きがちです。

でもそれだと自分が本当にやりたいことができなくなってしまいます。だから、正解を回りや外に求めずに、とりあえず行動してみる、決めてみる。そこから、自分が本当にいいと思うものを選んでいったり、決めていくっていう経験を積むことですね。

これって癖の問題だと思うんです。ずっとそういう風に正解を誰かに後で提示される状況に慣れてきたので、頭の使い方の癖ができてしまっている。だから、頭が良いとか、悪いとか、何かの能力があるとか、ないとかっていう問題じゃないんです。癖がついてしまってるので、癖と違うことをやろうとすると、しばらくはすごく苦痛だし、不安になるわけです。どんな癖でも一度付いたら直すのは大変なんですけど、実は難しいことではなくて、直すまでちょっと苦痛で、しばらく気持ち悪さがあったりするだけです。

例えば貧乏ゆすりをする癖がついてるとすると、しないようにするのはちょっと大変ですけど、できないことではなくて、どんな人でも癖をなおす練習を何度も繰り返していくと治る。決して難しいことではないんだと思います。ただ、今までついてしまった癖を治すには、しばらく時間もかかるし、そのための練習をしないとならない。とりあえず、身近なお弁当のこととかでもいいから、自分で決めて、正解が与えられない気持ち悪さに鈍感になる、正解がないことを気にしないようになっていく練習が必要なのです。

「どっちが正しかったかな?」って、ついつい思ってしまうんですけど、そういう不安を感じるのもある意味で癖をなおしていく過程なんだって割り切って、不安のまんまで何回も経験していくと、だんだんそれが当たり前になってきます。

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正解を求める癖を治せ

ー お話の中で「本質的な」と言う言葉が出てきたと思うのですけれど、本質を「嗅ぎ分ける」というか、「見極める」というか、それを少しでも理解できる力を付けられるようにするにはどういったことに注意すればいいですか?

なにかを「短く言ってみる」とか、「一言で言う」とか、できるだけコンパクトにその内容とか、その問題点とかをまとめてみる。そういう練習をする。一言で言おうとすると、その中で1番大事な点は何かを自分で考えるようになるので、絶えずそういうことを続けていると、1番のコアのところは何かというのを自分の中で考える癖がつくんです。最初はなかなか大変ですけど、1番いいやり方だと思っています。

これは、どんなことにも応用が利くし、どんなときにも必要なことです。例えば、大学院生にいろんな論文を読ませるんですが、その際、この論文の本質は何かって聞くんです。論文にはいろいろなことが書いてありますが、この論文の1番のポイントは何かを一言で言ってもらう、あるいは3行で言ってもらう。

柳川範之

そういうトレーニングをさせると、いろいろ書いてあるから、細かいところも大事で理解しないといけませんが、ほんとのポイントは何かっていうのが、ひと言で言えるようになっていきます。その論文の本質、1番のキーポイントを掴み取ることができるようになるトレーニングは、どんな時も大事ですし、トレーニングしておけば、だんだん、そういう風な目で見るようになってくる。

ー 全然違うことをまとめてくる人もいると思うのですが、そういった場合先生はどのように導くんですか。

今の質問に対しては、2つの答えがあります。ひとつはまとめ方が明らかにズレている時です。その時は、ここは「こういう風に書いてあるじゃないか」と言う感じで、本当のポイントをわかるような形で、もう一度指示をして考え直してもらいます。

でも、さっきのもともとの正解がないという話でいくと、実は論文の本質は、僕が思っている本質と、学生が思っている本質と2つあるのかもしれない。あるいは他の人が見ると、ここが本質だっていうところが別にあるかもしれない。つまり、僕が見ている本質が正解とは限らないんです。だから、その論文の何が本当の本質やポイントかっていうのは人によって違ってもいいんです。

さっきの話にもどってしまうのですが、「ここが本質だって考えていいですか」ってみんな不安になりがちです。「間違ったところを本質だと捉えちゃいけないんじゃないか…」、「せっかく論文読んでるのに…」って思いがちなんです。指導としては、ほんとに間違った方向へ行ったら、修正しますけれど、基本的にはその人が本質だと思うところがその人にとっての本質なんです。

ひとつの論文からは、いろんなことが発展していく可能性があるんです。そこから芽が出てくるポイントは、いろんなところにある。だから、僕が思っているここだけが芽がでるポイントとは限らないんです。僕が気がついてない、指導教官でも気がついていないところに、本当の本質があって、「ここが実はすごく伸びていく話だった」みたいなこともあるんです。

それは論文に限らず、なんでもそうなんだと思います。だけど大抵の場合、ここは「〇」でここが「×」とかってやってしまうから、多様な本質を見る目を逆に失わせている。

みんなが思う本質は、宝ではない

ー 求めているもの、求めてる結果が違うと、見えるものも違うということで、たぶんこの本からも求めてるものが違うと、入り方も違うと思うんです。

結局みんなが気がついていないような本質をピックアップできた人が、そこからビジネスを成功させていく、思わぬところに気が付けた人が、「そんな手があったんだな」という具合にベンチャーとして成功するような話が出てくるんだと思うです。みんなが正解だと思っているところには、実はおいしい宝は眠ってないんです。あえて逆のほうにふってみる方がチャンスは広がる。みんなが気がつかないところに、宝はあるんです。

柳川範之

ー 著書『東大教授が教える知的に考える練習』は、考えることは「自由で柔軟でいいんだよ」と伝えてくれているように感じました。

そういうのが今の世の中特に必要とされていることだと思うんです。みんなで正解だと思っているところに突き進んでいけば、ほんとに成功する時代もあった。例えば高度成長期とか、戦後の日本です。車ってこういうもので、フォードの車を見て、こういう風に作るもんだってときには、まさにそれが正解だったし、それに向かって突き進めばある程度の成功は約束されていた時代です。

ところが、今は「これから売れる車ってどんな車ですか?」ということが全くわからないわけです。電気自動車になって、自動運転車になったときのデザインって、「どんなのが1番みんなに受けますか?」っていうと、今の車と全く違うかもしれなくて、いろんな自動車メーカーの方は、そういう未来の車の良さを一生懸命考えているのでしょうけれど、正解がないですから。

今までのとは違う、考えの幅を広げてこそチャンスがあって、昔からそれは大事だったと思うんですが、今は特に、今までの考え方と違うところに、視野を広げるとか、柔軟に物事を考えるとか、正解にこだわらないとか、何かそういうことが重要になってくると思います。

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情報は使い方次第、迷って頭の使い方を鍛える

ー 先生から見て「考える」というのは、どういうことでしょう?

この本自体がそういう問いかけからスタートしているんです。今は、情報過多の時代なので、ネットを見ていると大量な情報が入ってくる。ですから、頭の中でその情報を加工するのが考えることだと思うんです。この情報が意味しているものはなんだろうとか、本質はなんだろうとか、そういう形で情報をさまざまに加工してみる。そのプロセスが考えるってことなんだろうと思います。

その加工の仕方にはいろんなことがあるし、この情報って何に使えるんだろうとか、悩むこと自体が考えるということの重要な意味だったりするんだろうと思います。いろんな情報に接して悩んだり、右往左往したりするっていうのがある意味で考えることの本質かなとも思います。

多くの場合、正解を導きだすための頭の使い方みたいなイメージがあるじゃないですか、そうするとまず「グーグル検索しようか」みたいなことになってくるわけですけれど、それだと本当の意味で考えてることにはならない。これからの時代の有効な頭の使い方ではない。悩んだり右往左往したりするプロセスこそが大事なんです。

例えば、知らない土地に行って、どこかの場所に行きつかなきゃいけないとすると、1番簡単な方法は誰かガイドしてくれる人を探す。これは1番の最短距離で行ける方法だったりするのですが、誰か知ってる人が連れてってくれると、道は一切覚えないので、そこを分かったことにはならない。次に自分で行こうとしても行けない。

ですが、1人で行こうとすると間違えたりして、右往左往しながらうろうろするんです。最近はGoogle マップがあるから、右往左往することも減りましたが、迷ったりすると逆にその街のことがよくわかって、次来たときには最短コースで行けるし、場合によると最短コースで行ったのでは気がつかないような街の風景とか思いがけないいい場所がみつかったりする。なので頭の使い方で、今必要なのはガイドがなくて、右往左往して街を歩いて行くタイプの頭の使い方なんです。道に迷ってうろうろするプロセスが、「考える」ということそのものなんです。

その時には直接役に立たないかもしれないけれど、そうやって頭を使ったことが、いろんなことでいろんなものと結びついて、思いがけない場所を発見するのと同じように、思いがけないものを結び付けてくれる。

結果ではなく、プロセスが考えると言うこと

ー この本を通して学んでほしいこととか、こういう人に読んで欲しいとかあれば伺わせてください。

ひとつはさっき申し上げたように、すぐに正解を導こうとせずに、いろんなことで右往左往することが大事だって思ってもらう事と、もうひとつは、この情報過多の時代にその情報をどう処理していくかが大きな課題だという事です。

今は、ネットで何でも情報が手に入るが、昔は手に入る情報はすごく少なかった。例えば、うんと昔だと、洋行帰りで、イギリスから本を持って帰ってきたり、それを翻訳するだけで、大変な大家と言われて飯が食えたような時代もあったんですが、今はそんなものネットで瞬時に手に入ってしまう。

ですが、たくさんの情報がある時代になって、その情報をどううまく使っていくかということが、問われている時代になったと思っています。情報をうまく取捨選択して、それを自分の中で考えるプロセスにうまく切り替えていくにはどうしたらいいかと言うのがこの本の主題です。

そういう情報過多の時代にその情報をどう使ったらいいかって悩んでいる人とか、今までにない発想とか新しいアイディアを出せとか言われている人とか、どういうふうな頭の使い方をしたらいいか悩んでいる人とか、そういう人に少し参考にしていただけたらいいなと思っています。

【略歴】
柳川範之(やながわのりゆき)
東京大学経済学部教授

1963年生まれ。中学卒業後、父親の海外転勤にともないブラジルへ。ブラジルでは高校に行かずに独学生活を送る。大検を受け慶応義塾大学経済学部通信教育課程へ入学。大学時代はシンガポールで通信教育を受けながら独学生活を続ける。大学を卒業後、東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士(東京大学)。
主な著書に『法と企業行動の経済分析』(第50回日経・経済図書文化賞受賞、日本経済新聞社)、『契約と組織の経済学』(東洋経済新報社)、『東大教授が教える独学勉強法』(草思社)など。

柳川範之ウェブサイト
柳川範之書籍一覧

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