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日本の伝統芸能を世界へ。講談界の異端児、神田山緑先生に聞く講談の魅力

日本の伝統芸能を世界へ。講談界の異端児、神田山緑先生に聞く講談の魅力

自らを「異端児」だと言う講談師、神田山緑(かんださんりょく)先生が講談に出会ったのは、経営者という経験があったから。今までにない講談師の例外を体現し、平成30年3月、真打に昇進した。「あの話が講談と言うのか!」と目からウロコが落ちる人も多いはず。歴史がある故にしばりの多い世界で、元経営者ならではの講談活性化の未来と取り組みまでとことん聞き取らせていただきます。

神田山緑

講談とは?

日本の伝統芸能で、話芸なんて言うんですけども、「講談」「落語」「浪曲」は、三大話芸と言われ、その一つです。講談の歴史がもっとも古くて、500年前からあります。「神道講談」と言って、安倍晴明や藤原道真、古事記であったりとか、そういうものを物語として語っていくことがスタートでした。講談から落語・浪曲・漫談という風に分かれていきます。落語は仏教からきているので、お坊さんの説法のようなニュアンスが多いです。

神田山緑

歴史は講談師が作った!?

戦国時代になってくると、(講談師は)軍師になっていきます。合戦の歴史をいっぱい頭の中に記憶していますから、講談師の話をもとに戦術を練っていました。特に講談師の使い方が上手かったのが、家康と秀吉ですね。

私が色々調べてわかったのは、多分今ある歴史、ほとんどが講談師がつくっています。家康も秀吉も自分を英雄にさせるために講談師をおいて、語る人間が英雄にしていくというスタイルを確立させました。秀吉の物語に「太閤記」は、30分の話が365本あって、一年中太閤記しかやらない講談師がいたぐらいです。

講談師がニュースキャスター

そのあとは、今でいう新聞の代わりにかわら版というものが出てきます。これを買い求める町人たちがいっぱいいる。そうした時に講談師が今度は、そのかわら版を講談でストーリーとして語っていくのです。だから今でゆうニュースキャスターですかね。そこから物語ができてきて、「忠臣蔵」はまさに講談師がつくったストーリーです。「鼠小僧次郎吉」も「大岡越前守」も作りました。ですから昔の講談師は凄かった!

「水戸黄門」なんかは、黄門様は実際全国に回っていません。あれは「水戸黄門漫遊記」という物語が講談にあって、講談師がつくって旅をさせてるのです。(笑)講談がベースになってて、それがテレビや映画になったりして今に残っています。

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落語との違い

講談はストーリー性が強いです。落語の場合は「八っつぁん、熊さん、ご隠居さん、人のいいのは甚兵衛さん、馬鹿で与太郎」なんて出てくる話が多いですが、講談は侍が出てくる話が多いです。講談師はその昔(刀の)二本差しを許されていて。身分が高かったのです。今もその名残りで、講談師が真打になると「先生」と呼ばれます。落語の方はなんと呼ばれるかというと、「師匠」。「先生」の方が身分が上。このことだけは声を大にして言いたいですが、今は逆転していますけどね(笑)

ストーリーがあって人物や年号が決まっていて、しばりの中で語っていくのが講談です。オチがありません、講談師は、昔、寺子屋の先生でもあったので、そういう者がやってるからオチはつけないで、この続きは「こんな感じですよ」と予告する。テレビでも連続ものになると「そのあとはこうなっていきますよ。」とちょっと予告するじゃないですか。ああいうような感じでどんどん読んでいきます。

例えば「鼠小僧次郎吉」をやると、生まれた頃の話から、悪さをして江戸にいられなくなった話、八王子で初めて盗みの仕事をした話、今度は上方に行きますが、また江戸に戻って捕まって殺される話、全部ストーリーになってるんですよ。

だから話の終わりにはダイナミックに盛り上げて「ここからこんなことがあって、こうなっていくのですが、ここからが面白いところですが、これはまた明日」というような感じで宣伝をいれて終わらせる。すると続きが気になったお客様が次の日も会にきてくれるのです。

神田山緑

ー なるほど。「お後がよろしいでようで!」ということではないのですね?

よろしくないんです。次の話を聞かせたいんです。「四谷怪談」も、あれも講談なのですが、お岩さんがどうやって誕生して、伊右衛門と結婚して騙されて、いろんな人たちに騙されて、そこから廓に行っちゃうんですけども、そこでいろんなことをされて、そのまま川へ身を投げて亡くなってしまいます。そこからいよいよ化けて出るのですが、それも恐ろしいことに一人ずつ殺していく。最後は伊右衛門を殺しておしまい、というところまでに山ほどストーリーがあります。「四谷怪談」だけでも30席くらいある。

あの大手出版社のはじまり

ー 講談の話というのは、どうやって伝わっていくのですか?

元々は口伝で伝わっていたのですが、明治になってくると速記になりました。しゃべっていることを速記でバーッと書いていって、それが本として残っていくんです。その時代に残ったものというのが、落語でいえば三遊亭圓朝という名人がいて、その圓朝作の物語がいっぱい残ってます。それは速記で書く人が出来てきたから。

講談は落語よりも人気がありましたから、そこから講談も速記でというような。速記が普及していくと、「鼠小僧次郎吉」「水戸黄門」「忠臣蔵」などの講談の本が人気でどんどん売れました。それで会社になったのが、講談社。ここの会社には昔の講談本がたくさん今でも残ってます。

神田山緑になるいきさつ

ー 講談の世界に入ったキッカケは?

25歳から色々やってて、27歳のとき健康食品会社の社長をやっていました。商品自体は売れたのですが、自分の人間性が足りなくて社員が辞めていっちゃったんです。

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人間力を求めるうちに見つけたキーワード

自分がトヨタの営業で育ってきたから、売れないのがよくわからなくて、「外回りしろ」「売上が上がらなければ帰ってくるな」とか、私より全然年上の社員に言ったりして、とことん。ひどいものですよ(苦笑)。

今思うと社員は嫌だったと思います。自分より年下で、人間的魅力もない人についていこうと思わなかったんですよ。そこの魅力がなかったのがダメだなっていうのがわかって。一人ぼっちになったときに人間力がないなと痛感して、人間力のある人とはどんな人だろう?と思いました。

そこから色んな本を読んだのですが、人間力があるって言ったら松下電機の松下幸之助さん、和民の渡邉美樹さん、本田宗一郎さん、中村天風先生とか、そういう人の物語を読んだときに「講談」というキーワードが出てきて。そこに講談のストーリーが出てるんですよ。

太閤秀吉が大八車をひいているという物語であったり、一番有名なのが「草履取り」。そういう経営者や人間力のある方はみんな講談を勉強してて、歴史をちゃんと知っているんですよね。そこで講談ってなんだろうと思って興味を持ちました。

講談師 神田すみれとの出会い

話し方の勉強を24歳くらいからずっとやってたのですが、話し方の師匠が日本話し方センターで副所長をしていた山越幸、うちの師匠の(神田)すみれのところに講談のスキルを話し方に取り入れようと習いに行っていて。「今度発表会あるから聞きにこないか」と言われて、寄席に聞きに行ったとき、夏場だったんですけども師匠が「白隠禅師」の話をしたんです。そしたらずっと悩んでいたものが全部ブワッ!と消えて、その世界に引き込まれたんですよね。

ー それはどんな内容のお話ですか?

舞台は真冬です。白隠禅師の言うことを何でも聞き、信仰している男がいました。その男には娘がいまして、とあるとき娘が身ごもっちゃうのです。身ごもった娘は「白隠禅師の子供だ」と言ったんですよ。それは、白隠禅師の子供だと言ったら父は許してくれるだろうと思ってのことだったのですが、男は気が狂うように激怒し、今度は白隠禅師に嫌がらせをしていきます。

白隠禅師は自分の子供ではないとわかっていましたが、けれどもその子供を「自分の子供だ」と言い、可愛がったのです。男の娘はやがて、父に「実は白隠禅師の子供ではない。」と告白します。そこで男は「なんてことをしてしまったんだ。」と気付き、それからは白隠禅師に生涯を捧げた、というお話です。

頭の中で、白隠禅師が雪の散る中赤ん坊を抱いてる風景が見えました。一人の語りでそんなことができるなんてと、悩みがなくなって。あの感動ってすごいなと。

神田山緑

「この世界すごい」

やってみたいという気持ちになって、うちの師匠の講談教室に通うようになりました。一回目のときに、講談で修羅場(しゅらば)といって、「鉢の木」という物語があるのですが、それをやったときに、言葉がよくわからないんですけどやっていくうちに楽しくなっていって。あと、日本独自の大和言葉というんでしょうか。リズムがあったりして心地よいんですよね。大きい声出して。

そして仲間と終わったあとにビール飲んだんですけど、そのときのビールが今まで飲んだ中で一番おいしくて。「うわ~この世界すごい~」と思って。

29歳で弟子入り

3回目のレッスンのときに、師匠が「弟子入りするには、こうゆうことすれば弟子入りできますよ」と急に言い出したんですね。それで、「弟子にしてください」と言えば弟子になれるんだと思って、手を挙げて「弟子にしてください」と言ったのがキッカケなんですが、4回入門を断られ5回目で晴れて弟子になったんです。

その頃、神田神社が好きでよく行っていました。稽古していた場所が上野だったので、終わってから神田神社でお参りをしていたら「神田」って名前になったというのもご縁を感じています。

29歳で弟子入りって 当時としては遅いんですよ。理想的は、高校卒業してすぐに入るのが我々の世界では一番いいんですよ。というのは、何も知らないで純粋無垢のまま全部(講談のイロハを)入れていけるという。普通に一般的なサラリーマンやってたりするとそういうものが入ってきちゃうから邪魔になるんです。

私の場合は社長やってから入ったので、一番嫌われましたよ。歳も29だし。先輩に「前の仕事何やってたんだ」と聞かれて、「社長やってました」と言ったら楽屋(がくや)が凍りつきました。一番悪いパターン(笑)。

29歳からの努力

歳も29だったし必死でしたよね。仕事もやめちゃったし、やるしかありませんでした。寄席と呼ばれる仕事自体も月に5回しかないんですよ。落語の場合は365日あるのですが、講談の場合は月に5日しかなくて。そうすると大してもらえなくて、最初の年収は7万円でした。だから色々アルバイトしながらやってました。

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できることを開拓する

うちの師匠の教えとして、「こういう食えない世界だし、あんた男だし、元々経営者やってたんだから、どうせアルバイトやるなら噺だけで食べていく仕事をやりなさい。」と言われたんです。それで、講談師がはとバスで皇居回ったりして案内するコースがあるんですけど、はとバスのガイドやってました。

忠臣蔵ゆかりの場所で松の廊下があったりするので、そういうような物語を語ったりしました。入門して6か月くらいですかね。師匠が「私が先にバス乗るから」と言って、師匠がガイドしてるのを見て自分でメモしたりして、で次の日「あんたやりなさい」と、いきなりはとバス乗ったりして(笑)。

もうめちゃくちゃで嫌な汗いっぱいかきました(笑)だけど、最初のバスに乗ったお客さんが今でも私のごひいきになってる人が2人います。めちゃくちゃでしたけれどもとりあえずそんな感じでやっていました。

あとは、結婚式の司会をやったり。そこで、ひとつ独自のものを作りたいなと思って、新郎新婦のなれそめを講談にしたら面白いんじゃないかということで、「なれそめ講談」を作ってやっていったらこれがすごい人気になりました。そういうような感じで、しゃべる仕事で、神田山緑って名前が使えるところで前座の頃はやっていました。

神田山緑

しばりの外からのチャンス

「前座はこういうことはやっちゃいけないよ」というしばりがすごくいっぱいあります。仕事でやっちゃいけないこと、着物の恰好であったりとか。ようやく二つ目(ふたつめ)になるとある程度は開放されていくんですけども、それでもしばりがあって、怪談話やっちゃいけないとかもあります。

本来だったら講談教室は、二つ目でやってる人なんか誰もいませんでした。真打の大ベテランの人達が講談教室やっています。ですけど、たまたま中野区が力を貸してくれて、「伝統芸能体験イベントで3回だけ講談教室をやってみないか」と言われて。師匠に相談をしたら、「それだったらいいわよ」と言ってくれました。初めてやったときは20何人集まりました。その中の16名が継続的にやりたいと言ってくれて、そこで講談教室が立ち上がりました。

ー 今生徒さんが200名くらいですか?日本で一番大きいサイズですよね。

そうです。でもこれがね、多分、今年中に300名超すと思いますよ。九州の佐世保でも講談教室できますし、あと横浜、五反田でも。今まではうちの師匠の教室が一番大きかったのですが、ここだけの話、二つ目のときに超えちゃって。師匠からも「あんたまだ二つ目なんだから、そんな教室の宣伝するんじゃないわよ。他の人からも目をつけられるからやめなさい」と怒られていたときに、真打の話が決まりました。

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ー 明治乳業のCMは真打になってからお話がきたのですか?

あれも二つ目なんです。師匠にお伺いを立てて、そしたら「いいわよ」と言ってくれたので、請けられたんですけども。

謙虚を学び、目をかけてもらう

ー なんだかんだ、ものすごく師匠が目をかけてくれていますよね。

多分今思うと、(講談の世界に入る前までは)謙虚じゃなかったんですよ。結構人を見下してたところもあるから、それを修行するためにこの世界に入ったのかと、今思い返すと思いますね。

ブランドものの服や時計を最初前座の時つけてたんですけども、全部怒られて。ユニクロしか着ちゃだめみたいな感じになって、ユニクロを着たりとか。あるいは、食べ物や飲み物の注文は、お客さんや師匠よりも一番安いものを頼まないと怒られ、口をつけるのもお客さんが先に口をつけてからでないと食べれない。

また食べ物を残してはいけないので、打上とかで残り物が全部一番下に回ってきて、すべて平らげるまで帰れない。時にはトイレに行って吐いてもまた食べたりして、そういう時は涙が出てきたりしました。上下関係が厳しくて、歳が下かろうが上かろうが。先輩から「カラスは白だ」と言われたら“白”って世界を叩き込まれました。そこですごい鍛えられました。

ー 29歳でそれをゼロからやるって大変ですよね。

結構苦痛でしたよね。私より年下の先輩がいましたし、この世界の常識がなじまなくて、先輩からボコボコに叩かれました。ですが、そのことがあったから仕事も覚えたし、今の神田山緑があると思います。

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縁で広がる活躍の場

ー 今はCMや観光大使と色々活躍されていますが、そういう活躍の場はどうやって作ったのですか?

人の縁ですよね、やっぱり。うちのすみれ一門に弟弟子がいたのですが、この子が34歳くらいで入門してきました。34歳なんだけれど一般常識がほとんどないというか、ちょっとダメだったんですよ。で、師匠が面倒みきれないから「お前が面倒みろ」と言われて。

そのときは二つ目になりたてのときで、「いや、師匠の弟子なんだから師匠が面倒みた方がいいんじゃない」と思ったのですが、そんなこと言えない世界ですから。そのうち、他の人に迷惑がかかるので寄席に出ちゃだめという感じになっちゃったんですよ。

でもそれでは講談の勉強もできないし仕事がなくなっちゃうので、そこで中野にある哲学堂公園で、「じゃあ二人で会やろうよ」となって、二人会やろうとしてたんですね。4月28日が第一回目の会だったのですが、その一週間前に彼が辞めちゃったんですよ。二人でやろうとしてたのに辞めちゃったから、私が一人でやるしかないじゃないですか(笑)。

それで一人でやったのですが、お客さんが最初3人しか来なくて悔しい思いをしました。でも継続的に月に一回やっていくうちにお客さも増えていって、中野区の関係者が聞きにくるようになりました。そこに聞きにきた人の縁で「講談教室やってみないか」ということで講談教室もできて、その延長線上で中野区の観光協会ともつながりができて、観光大使になったというご縁です。

元々前座の頃は地元を愛してなかったというか、講談師になったこと何だか恥ずかしくて隠してたんですよ。だから後輩がきっかけを作ってくれたおかげで、中野区を中心に色々やるようになったんです。不思議なもんですねぇ~。

神田山緑

本を執筆した縁

ー 「講談で身につく、ビジネスに役立つ話術の極意」という本を執筆されましたが、それもそういうご縁で?

これは面白くて、「なれそめ講談」ですよ。新郎新婦のなれそめ講談を頼まれて、すごくよかったみたいで喜んでもらえて、みんなからも「なれそめ講談すごかった~!」って。それを聞いた人達が教室の生徒になっていったり、新郎新婦も生徒になってくれて。(笑)その新郎が出版プロデューサーだったんです。今度真打になることが決まった段階で、「じゃあお礼に本でも出しませんか?」と言ってくださって、その人が間に入ってくれて本を出すことになりました。

3月18日が帝国ホテルで(真打昇進の)パーティーだったのですが、お客さんが300人くらい集まって。(本の出版は)3月26日だったので、その前にそこで先行発売しました。

執筆がもう大変で大変で。やったこともないし、10万文字書かないといけないと言われて、真打の準備もあるし、講談も覚えないといけないし、もう頭がおかしくなりそうになりました(笑)

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海外で講談

9月にタイで講演が決まっています。その秋にマレーシア講演もほぼ決まってるんですよ。これから海外で講談をやっていく機会が多くて。去年の10月は台湾行って、(評判が)よかったみたいで、また台湾講演もあるんですけど。

ー 海外でやる場合は、同時通訳で聞くのですか?

いいえ、日本語で。親日家の人が多いから。あと、まだ台湾でしかやったことないのでわからないのですが、台湾のときは日本語学校でやったんです。能の鼓の人と一緒に行ったのですが、着物着てるし、日本の伝統だし、それがよかったらしくて。

そこで、うまくいったら李登輝先生の前で講談をやる予定でした。体調がすぐれなかったみたいでダメになっちゃったんですけど、その李登輝先生が、台湾でダムを作った八田与一の講談を一番聞きたいということだったので、八田与一の物語を向こうでやりました。あの人が台湾を作った話です。

台湾でみた武士道

(台湾で)日本の武士道の精神が残ってるのは、八田与一先生や新渡戸稲造先生の影響です。今の日本人は、日本人なんだけど根底の部分を勉強してなかったり、道徳がなくなっちゃったりしてるから、それ(武士道の精神)が弱いです。だけど台湾の人はそこがしっかり根付いていて、「我々は中国人じゃない、日本人だ」と言ってましたからね。親を大切にしたり、目上の人を立てる、もう武士道の精神ですよね。そういうものがちゃんと残っている国なので、日本より日本らしい。だから(講談は)喜ばれた。

世界の素晴らしさを共有する

そういう精神を若い人たちに伝えていきたいなというのもあります。今度タイでやるのも、タイで活躍した日本人の物語を講談で作ってやろうと思ってるんですけども、マレーシアもマレーシアで活躍した日本人の話をやっていく。そうすると今度それを語る向こうの人間が増えていくというのもいい。

神田山緑

日本って素晴らしいよね、だけども台湾も素晴らしいよね、マレーシアも素晴らしいよねって。そうしたら喧嘩にならないですよね。日本だけいいと言ったら喧嘩になりますけど。講談を通じて、国の素晴らしさであったり世界のすばらしさを伝えていきたい。

海外で講談教室

ゆくゆくは、そこの中から講談教室を作りたいと思っています。台湾で教室ができたら、(向こうの人が)向こうの言葉でやっていきつつ、だけども着物着て、座布団の上に座ってやってねって感じにしたり。海外でそうゆう風になってたら着物の文化や産業が変わっていきます。男の着物なんて今ほとんど売れないのでね。

そういう活動をしながら、講談というひとつの伝統芸能を色んなところと繋げていって。そして今度はそういう人たちが日本に来て、実際の高座に座ってみて、英語でもなんでもいいから講談を語って、というような活動をしていきたい。

芸の継承

今、講談のプロは全国に80人しかいません。片や落語は1000人近くいる。私が講談の世界に入ってから、後輩が20人くらい辞めています。講談は特に辞めてっちゃう。浪曲は一番定着するみたいで誰も辞めなのですが、講談が一番定着率が悪くて困っています。

まず仕事もないので稼げません。でもそこで開拓しようとする人もいない。元々あったものの中でやっていくと限界があるけど、私の場合ははとバスやったり、結婚式の司会であったり、CM、教室、色々あるから幅が広がったんですけども。
普通の人が寄席だけでいくと、ギャラも決まっちゃってるし、生活ができなくてアルバイト重視になって辞めていっちゃいます。

あと、今の時代に合っていません。指導の仕方とか、絶対的ですから。「なんでできないんだ?」という感じで。でもそれがあるから、侍の話・殿様の話・家来の話もできてくるので、それを活かして芸になっていく。今の人たちはすぐ結果を求めたりするから、辞めていっちゃうんですよね。

広げる裾野、話す場所

講談師を育てるのが難しいなということで、そこで今、語り部のプロの集団を作ろうと動いています。「話道家(わどうか)」という。商標も取りました。話すことを極めた人ということで、家元制にしながら話道家を広げていくことをやっていきます。

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今うちの生徒がすごい喜びを感じていて。だって講談楽しいんですもん、本当に。知らなかった人が体験で来るとハマッちゃって。発表会も去年までは年1回やってたものを今年は3回やって、ミニ発表会とかもやる予定です。

それくらい人前でやりたいし、あとボランティアとして生徒たちが色んな場所で今活躍しています。老人ホームや幼稚園、学校の授業まで。我々プロだとギャラもらわないとできないので断ってしまうのですが、だからそういうような仕事は全部生徒に。生徒としても人前でできる喜び、向こうも「わざわざ講談しに来てくれた」という喜びと。

あとはこっちが別の仕事でどんどん講談を広めていけばいいかなと思ってて。今大学の授業でも講談が授業になってたりしてるので、講談の仕事が変わりつつあるし、たぶんこれから面白いことができるかなって。

ー こういう風にお話聞かなかったらわからなかった世界なので、すごく楽しいです。

私はもうね、異端児ですから。(笑)だけど私がこう活躍していくと町おこしもできるし、町に活気を与えることもできます。そういう人をどんどん作っていきながら、ストーリーというもので「日本はこんだけ素晴らしい、海外でもこんな素晴らしいことあるよ」というようなことを、我々が話ながら伝えていくっていうのが多分使命で、生涯やってくと思います。

神田山緑

【略歴】
神田山緑(かんださんりょく)講談師
講談協会 真打
東洋大学・清泉女子大学・文教大学・明治大学特別講師
日本話道家協会理事長
中野区観光大使

東京都日本橋人形町出身。敬愛大学卒業後、トヨタ自動車の販売店に入社。営業マンとして新人賞を受賞。退社後、健康食品会社を立ち上げ、商品説明の話術の勉強に日本話し方センター副所長の山越幸氏に師事。その縁で神田すみれ講談教室に学び、講談の魅力に取りつかれ平成17年神田すみれに入門、講談師の道を目指す。講談協会理事のお認めを頂き平成30年3月真打昇進予定。平成25年より講談を教え、今まで5000人に講談を教える。明治乳業「明治ロコテイン」CM出演。BSジャパン「土曜は寅さん」ナレーション担当。FM府中「山緑の講談ちゃんねる」「渋谷のラジオ」等々、テレビ・ラジオでも活躍中。

内閣府政府広告「社会保障制度・年金・子育て・医療・介護・少子高齢化」を宣伝。はとバス・町歩き・旅行ガイド。2020年東京オリンピック応援プロジェクト、東西の若手講談師による講談戦隊ゴリンジャー結成。今、最も勢いのある若手講談師。

神田三緑 公式ウェブサイト