ロングラン映画「風待ちの島」で、制作・脚本・監督・主演すべてを担った映画制作と人への想い。

「勇気を出して、人生はね、自分がこうしたいと思ったことが現実になるの」映画「風待ちの島」の中のこのセリフは、制作・脚本・監督・主演すべてを担った小山田モナ(おやまだもな)さん自身の人生に基づくものかもしれません。様々な経歴を経て女優になるまでの苦悩の日々、そして映画ができるまでの裏話を包み隠さずありのまま聞き取らせていただきます

小山田モナ

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女優兼監督になるまで

ー 女優になろうと思ったのはいつからですか?

中学1年生のときに友達が京都の劇団に入り、「一緒に入らない?」と誘われたんですけど、お金もかかりますし、母から「ダメ!」と言われまして。

そして高校のときにテニス部に入ったんですが、仲良くなったクラスメイトが演劇部に入ったんです。そしたら「演劇部入ろうよ入ろうよ」って無理矢理連れて行かれて、そのまま入部させられまして、結局テニス部はやめますということになって。(笑)

演劇部で色々お稽古していて、台本の解釈がすごく入って(できて)、結構いい役を頂いていました。高校3年生になったら部活を引退するのですが、やっぱりまだ演劇をやりたくて、文化祭のときに「クラスで劇をやろう!」と強引にみんなを説得しました。

どこから見つけてきたのか覚えてないのですが「True Love」という台本があって、それを私がパロディーに脚色してやったんですよね。それが文化祭で大ウケしまして。(笑)

その頃は父の転勤で和歌山にいましたが、和歌山の大学の講堂で、北村想さんの「寿歌(ほぎうた)Ⅱ」という戯曲で、キョウコという白痴の女の子の役をやらせて頂いたりして、そういった積み重ねの中で、気がついたら・・なんですけど、お芝居やりたいなと思うようになりました。

小山田モナ

迷いの日々

高校卒業と同時に文学座を受けたんですけど落ちてしまって、しばらく東京でアルバイトしていたのですが、「こんな生活を続けて・・・どうなっていくんだろう・・」と思ってしまって、当時は神戸にあった実家に一旦戻って受験勉強をやり直して、地元の短大に入学しました。学歴や資格を身につけて東京に行って働き口を確保して、芝居の道を志そうと目論んだのです。(笑)

それで作戦通り、東京の企業に就職しました。機会をうかがっていたのですが、やはり伝手もないし、よほどのことがないと大手の事務所には入れない。私が探しきれなかったところはあったと思うのですが、どうしたらいいのかわからなくて「もう無理、女優にはなれない」と諦めかけていました。

たまたま会社の先輩がよく行くライブハウスについて行ったときに、歌っていらっしゃるのが素人からオーディションを受けて、という方達でした。それで私もオーディションを受けるところからスタートしました。結構ライブハウスに通って、歌のレッスンしてもらったりボーカルスクールに行ったり。

ですが、そのうちだんだん体も心のバランスも崩してしまって、また実家に戻って。しばらく休みながらパートタイマーや派遣の仕事をして・・という感じでした。嘱託職員でずっとそこで働けたらいいかなと思っていた会社とも巡り逢ったんですけど、まさかの契約満了になってしまいました。

その後仕事先を探してたとき、たまたま新聞で見つけた大阪のプロダクションの女優募集記事があって。年齢もちょうどギリギリだったので、就職活動の一環で応募してみようと思って応募してみたらトントン拍子で受かっちゃったんです。

大阪、そして再び東京へ

2年間、大阪のプロダクションでお仕事を頂いてお芝居の勉強をしました。お芝居の先生から「本当に芝居するなら東京だよ。あなたはお芝居が好きだから。」と言われたのですが、それまでの経緯があるので、「いや、東京は呼ばれて行くところだから、私はもう自分から行くってことはないです。」と言っていました。

当時は、プロダクションでお仕事を少しずつやらせて頂きながら、社労士の専門学校に通っていて、どっちに転ぶのかな~?と自分でも様子を見てた感じでしたね。

そんなときに伯父の法事が東京であるということで、「行ってきなさい」と母に言われて行きました。そうしたらもうそのまま帰らず・・・(笑)
今思うと、法事という形で呼ばれて私は東京に出てきたんですよね。

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「次こうなったらいいな~」と思うとそれがやってくる

法事が終わってから暫く伯母の家でブラブラしてたんですけど、ずるずると帰らなかった目的は、できれば映画のワークショップに出られたらいいなと思ってたのです。映画監督のワークショップで、芝居のレッスンを受けたいなと。当時関西にはそういうのがなかったですから。

紹介されたのが鈴木元監督、鳥井邦男監督、清水浩監督が立ち上げられたD3ワークショップでした。私はそこの一期生なんです。結構、俳優になりたい人を騙してお金をガッポリとる所が多い中で、そこは本当に役者を育てようとして監督たちが立ち上げたものだからって。

それに出たいなと思ったのですが、でも数カ月はいないとダメだから無理だよなぁなんて思っていたら東京での派遣の仕事が決まって。運良く働きながら映画の演技を学べたのです。

小山田モナ

毎日が楽しくて楽しくて。映画監督や役者仲間とワークショップ終わってから飲みに行くんですけどね、芝居の話をしたり、カラオケ屋さんで始発待ったり、遅咲きの青春してましたね。(笑)

随分といろんな方々に助けて頂きました。不思議と、「次こうなったらいいな~」と思うとそれがやってくる。本格的に映像の演技の勉強を始めたあの頃は、そんなことの連続でした。

映画が撮りたくなる島、隠岐島(おきのしま)との出会い

隠岐島の島前にある海士町の方達とふいに出会いまして(笑)、島に呼んで頂いたので行ったんですよ。そしたら映画を撮るにはすごくいい環境だったのです。景色は美しいし、ロケーションもピッタリ、保養施設もあって映画を撮る環境が整っていました。映画を撮りたいねと言っていた映画監督と役者仲間と「ここの島でだったら撮れる!」ということで、役場の課長に協力をお願いしました。

「こんなことはやったことないけど、是非やってみよう」という話になって。今もそうですけど、海士町はチャレンジ精神で不可能を可能にする底力のある島なんです。

商工会にも話を持っていって頂き、監督にも来てもらい、進めていったんですね。その中で、元々書くのが好きなので、脚本書きたいなという思いがあって。監督さんも書ける方でしたが、「私の方で書かせてください」ということで書くことになりました。

商工会の方から「隠岐島の歴史と文化を織り交ぜた、美しいラブストーリーにしてほしい」というお題を頂きまして、それに従ってこの「風待ちの島」を書きました。

一人ですべてやることになった経緯

ー この「風待ちの島」の制作・脚本・監督・主演すべて小山田さんとなっていますが、一番最初は他に監督さんがいらっしゃったのですか?

はい。でも資金面のことで当初と話がかなりズレてきたりして・・・。その監督さんとはご一緒できないことになったんです。自分が大変な思いをすることは解っていたので、最後まで監督だけはやりたくなかったんですけど、最終的には、島の課長から奨められて・・腹をくくりました。(笑)

ー そうなんですね。そういったことがあった後、映画はどのくらいのスパンで撮ったのですか?

撮影期間は2年です。本当でしたら1ケ月以内で撮りきれる内容なんですけど。でも私一人で制作しようと腹をくくっていたので、撮りこぼしたりミスを最小限にするためと、経済性を考えて、時間をかけてやろうと。普通、映画は総括プロデューサーがいてプロデューサーが何人もいるんですけど、私の場合人脈もなかったですし、知らない人に下手にお願いできなかった。2年間ずっと付き合ってくれた撮影の山崎玲さん、録音の田中博信さんには撮影は勿論、技術スタッフの方々をご紹介頂きました。本当に感謝です。

小山田モナ

純粋につくりたかった

一人で制作しようと腹をくくったのは、私のいないところで制作のお金、まぁ、私が派遣就業で得た微々たる、生活費を含めたお金なんですけどね(笑)、それで飲み食いしようとした人もいて、もちろん許しませんでしたけどね。実際「協力してもいいよ」と言われて、利用されそうになったり、脚本を変えられそうになったりして。

それはそれで良い作品ができればいいんですが、島の方から「隠岐島の歴史と文化を織り交ぜた美しいラブストーリー」というお題を頂いている以上、そんな人達を島に連れていけない。良いものができるわけがないと思って。それで島の課長に勇気をふるって「映画を撮ることよりも、島民の方々からの信頼を失うことのほうが私は怖い、あの方達と一緒にやるならナシにしたい」と伝えて。そうしたら、私を利用しようとした人が先回りして「モナさんを外して私達とやろう」と課長に言ったらしく、でも課長は「これは元々私達とモナさんでやろうって言ってた話だから」と砦になってくれた。

他にも「鳶に油揚げをさらわれる」ようなことがあったりして。課長に大泣きしながら「こんなひどい目にあって辛い思いをするならもうやめたい」と電話したら、「そんなこと言わずに頑張ろう」と言って下さって「ああ、頑張るのかぁ」って(笑)もう10年間いろんな事があって、ずっと一人でわあわあ泣いていましたね。(笑)

ー クランクインまでどのくらいかかったのですか?

8年かかりました。2006年に隠岐島と出会って、撮影開始が2013年5月、撮影の山崎玲さんと録音の田中博信さんと私の、たった3人でのクランクインでした。クランクアップが2015年の5月なんですけど、その後の編集作業などで半年くらいかかったので、2015年の10月にやっと「風待ちの島」は完成しました。

「風待ちの島」の反響

ー それだけの想いで出来上がった映画が、今全国あちこちで上映されているんですね。2015年に上映開始でもう3年ですが、それだけのロングランになっている要因は何だと思いますか?

私、人にこだわったんですよね。どんなに力のある人だったり有名人だったりしても、だからお願いするということはしませんでした。関わった人たちの心が全部カメラを通して視えちゃうと思うんですよ。ましてや自主制作ですから。心を込めてつくるということが一番大切だし、スタッフさん、役者さん、サポート・応援・協力してくださった皆様の想いが詰まってるので、それが観てくださる方々の心に届いているんじゃないかなと思います。あ、でも一番詰まっているのは、私の執念かな(笑)

小山田モナ

あと、観てくださった方々が「上映したいんだけど」と言ってきてくださるんですね。上映できる場所はいっぱいありますので。Nuff美容室やRuyi鍼灸院の友人達からもサロンでやりたいと言ってもらって。カフェでもやりました。

俳優の赤星昇一郎さんがやっていらっしゃる下北沢のリーディングカフェピカイチでは、5日間上映させて頂きました。5日目は昼の部も夜の部も満席だったんですよ。昼は私が入れないくらい(笑)映画にご出演くださった一谷伸江さん、女優の風祭ゆきさん、ゲストとして歌手の森田由美惠さん、音楽プロダクション社長の北田さんもFacebookで私を見つけて下さって、芸能関係の方がたくさん来てくださって、「こんなところで盛り上がる!?」ってところで笑いが起きたりして。

赤星さんが「モナちゃん、この映画は上映し続けなきゃ。大きなホールでできるようになるまでうちでやったらいいよ」と言って下さって、ひと月に1回、毎月上映させて頂いていました。

他にも静岡県焼津市のシルバー人材センター様や焼津市協働課様から上映依頼を頂きまして、そこで観て下さった方が、観た後、その足で映画のチラシを握りしめてJA大井川の池谷組合長様へご紹介下さり、大井川農協様のイベントで上映をさせて頂きました。初めて新聞にも掲載いただいて…嬉しかったですね。

「風待ちの島」ができるまでの物語

何度も観に来てくださる方々からは「観る度に響く言葉が違っていて・・」というご感想をよく頂きます。映画の内容も皆様からご支持頂いているんですけど、「この映画は、撮影・完成に至る背景もすごく共感を呼ぶと思うから、上映後のトークショーは絶対やった方がいいよ」とプロ講演家の酒井とし夫先生が言って下さったんですね。実際、上映ご依頼の際に、講演もお願いしますと呼んでくださるので、上映とセットでその都度、制作エピソードなどをお話させて頂いてます。

映画制作を通じて私が経験したことは、一歩踏み出す勇気が出ないという方々、そして、資金も人脈も知識も何もないゼロの状態から映画完成という達成までのプロセスは、ある種ビジネスの観点からもお役に立つことがあるのではと思って、企画書ももう興してあるのですが、いつか「風待ちの島」ができるまでのことをまとめた本を出したいと思ってます。

制作中、心に秘めていたもの

三位一体じゃないですけど、制作中は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のホトトギスの歌を常に念頭に置いて意思決定をしてました。あと佐治敬三さん・松下幸之助さん・稲森和夫さんのお三方の、私が一番心に残っている言葉を心に秘めて、色々なことを判断してました。

私は派遣社員や普通のOLもしてましたのでデスクワークも好きですし、そのときに学ばせて頂いた仕事の知識、考え方をベースにしてやっていたところは、他の方とは違うやり方だったかもしれません。

小山田モナ

先日、メーカー勤務の友人に、彼女は課長職に就いているんですけど「私達が本や研修で学ぶプロジェクトマネジメントを、あなたは映画制作の中で自然とやっているから、そこがすごい!」と言われて。

ちょっとビックリしたんですけど、火事場の馬鹿力というか(笑)、そう言えば高校生の頃、本屋さんでサラリーマンの方々と並んでセーラー服姿でビジネス本を夢中で立ち読みしてたんですよね。(笑)それと、父がPHPという本を持って帰って来てくれて、毎月楽しみで、それは私の愛読書でした。

今後の展望

映画の中では、セクハラ、パワハラ、モラハラにも言及していて、男女協同参画を中心に企業や市役所の男女協働課などに向けて、それと単館系の映画館への営業を頑張っていきたいと思っています。

あと、全国離島リレーという感じで、ぜひ離島で上映させて頂きたいですね。映画のロケ地、退任された海士町の山内道雄元町長も「これはうちの島だけの問題じゃない。離島が抱えている問題を多くはらんでいる映画だ」と言ってくださってます。

そして、海外、アメリカは勿論ですが、特に韓国・中国・フランスでは上映したいなというのはあります。この映画がたとえ日本で流行らなくても、心の機微を描くことに長けている国の方々の心に響くように、祈る思いで作ったんです。

世界で活躍されていたバレエダンサーで、現在はヨガインストラクターとして、ハリウッドで著名な方々の指導もされているLeo Zenさんから、来日の際に、字幕の用意ができないまま「風待ちの島」を観て頂いたんですけど、「字幕がなくても俳優の方々の演技で理解できた」と大絶賛して頂きまして、これは海外に持って行く上で、私にとっては更に大きな自信になっています。

映画祭も出展できるものがあれば、多くの方に観て頂けるチャンスなので出していきたいですね。あとは、今また新しい映画の制作の準備をしています。ああ、言っちゃった!(笑)まだ私の中だけの準備なんですけどね。風待ちの制作で散々な目に遭ってきたのに、懲りずにまた脚本書いてるんですよ。(笑)これは伝えたい・・というものが出てきて。

上映するにも、映画際に出すにも、海外に持って行くなら字幕をつけてとか、新しく映画を撮るにも資金が必要です。先ほどプロジェクトマネジメントの話をしましたけど、極力お金のかからない脚本を書きましたけど、それでも資金面に関してはご協力いただいた皆さんのご厚意に甘えた部分が大きかった。

かと言って、大手のスポンサーがつく商業映画とは違いますので、これは課題です。作るならやはり妥協せず、これからも「観て良かった!」と余韻に浸っていただけるような作品をと思ってます。今後は、協賛を集めたり、寄付を募ったり、クラウドファンドも活用していこうと考えてます。

ー 映画を観たいという方はどうすればいいですか?

上映情報は、「小山田モナ」のアメブロのメッセージボードや記事、「風待ちの島」の公式ホームページに掲載していきます。ご不明点があれば、それらの媒体にお問合わせメールアドレスを載せてますので、ご連絡いただければと思います。

上映をするには場所も資金もエネルギーも必要です。二年間、皆様のご協力の元で私も精一杯自主上映をしてきましたが、これからは企業様、自治体様からの上映ご依頼を頂く中で、自主上映に関しては、やるなら気持ち良くご鑑賞いただける環境でやっていこうと思ってます。

お陰様で上映する度に輪が広がっていくというところがあって、これから地球上のいろんな土地で、いろんな方々に観ていただけることが目標ですし、本当に楽しみですね。

そして、「風待ちの島」スタッフと俳優の皆さん、映画ができるかどうか判らない時から応援と支援をしてくださった方々のお陰で「風待ちの島」も私も今ここにいるんですよね。本当に感謝しかないです。これからも龍の如く、上昇していきます。

小山田モナ

【 略歴 】
小山田モナ(おやまだもな)  
女優・映画監督

京都府出身、夙川学院短期大学英文学科卒業後、OL勤務を経て、派遣社員として就業する中、度々の芸能事務所との縁が続き、本格的に女優活動を始める。映画「デスノート~the Last Name~」、TV「孤独のグルメ」等出演、その後は舞台と映画制作を中心に活動。女優活動の傍ら映画制作に着手し、現在は全国での映画上映活動に専念中。

「風待ちの島」出演者はほぼ舞台共演者という異色のキャスティングをし、舞台出演していたのは映画出演者を探すためだったと密かに話題となっている。

サイト 制作団体treasure ship