単なる論理ではなく実践的な経営戦略を語った『ストーリーとしての競争戦略』は経営学の書籍として大変な衝撃作となりました。穏やかな中に力強さが光る、一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授である楠木建(くすのきけん)先生の言葉は、経営分野のみならず生き易さの道しるべにもなっています。「好きなようにしてください」の言葉に込められたメッセージを、とことん聞き取らせていただきました。
競争戦略の分野に辿り着いたきっかけ
競争の戦略という分野で仕事をしておりまして、それについて自分なりの考えを伝えています。その提供の方法は、大学院の講義であったり本を書いたり、新聞や雑誌での記事でお届けしたりとかになりますね。
書くこと以外のやり方としては不特定多数の方への講演をすることもありますし、企業の中で経営のお手伝いというか助言をさせていただくこともあります。提供する商品は同じですが流通販売チャネルがいくつかある、といったイメージですね。
― 競争戦略に興味をもったきっかけや、突き詰めてみようと思ったきっかけは?
僕の場合、学問的な使命感をもってこの仕事についたわけではありません。「やりたいことをやりなさい」と大学生のときに言われましたが、何がやりたいことかなんて正直わかりませんでした。ただ、逆にやりたくないことだけはよくわかっていた。
子どもだったということもあるかもしれないんですが、当時の僕の考えでは、人と一緒に働くのはいやだなというのがまずありました。集団で行動するっていうのが、小さな頃から不得手だという自覚がありまして。僕が通っていた一橋大学は、今よりももっとだったと思いますが、卒業したら割と大きな伝統のある会社に入るというのが所与の前提みたいになっていまして。
やりたくないことに道のヒントがある
大学も後半に入りますと、さまざまな分野の企業に会社訪問みたいなのをするのが当たり前になっていたんですね。ただそれはもちろん全部会社なので、当たり前のこととして組織の中で仕事をしますが、それが多分僕は向いてないと思った。
「のんびり本でも読みながら過ごしていたいなぁ」と思っていたのですが、残念ながら貴族じゃない。世の中でそんな本だけ読んで過ごすなんてことは許されないだろうということだけは、なんとなくわかっていました。ただ具体的な職業としては思い当たるものはなかったのですが、考えるということも嫌いじゃなかったので、とりあえずという感じで大学院へ進みました。
[adchord]利害関係より、自由気ままを選ぶ
― 一人でやれるお仕事だったら、企業にもありそうかなとは思うのですが。
いま振り返るとよくわかるのですが、僕は利害関係が強い仕事が嫌なんです。時間的な自由に加えて、利害関係からの自由を重視していました。一般的な企業での仕事には多かれ少なかれ利害関係が発生しますね。部下がいて守るべき納期があるといったことや、経営者であれば業績に対する責任があるといったことです。利害関係を背負うよりも、仕事のスケールは小さくてもいいので、自由に勝手気ままにやる大学での研究の仕事の方がいいと思ったんですよね。
僕は父が会社勤めだったこともあって、いろいろな仕事のイメージがあまりなかった。ただ当たり前ですが、実際やってみるとそんなにうまい話はない(笑)
― 本だけ読んでいるわけにはいかなかったですか(笑)
ええ。だから学問的な使命感で大学で働こうと決めたわけではないにせよ、大学院での勉強自体は嫌いじゃないから最小限のやることはやっていました。大学院を卒業するころには一橋が採用するというので、これで一応給与所得者で、自分の研究室が与えられて、日がな一日好きなこと勉強していなさいよってことなので、シメシメと思いました。
研究者という仕事のフォーマット
― その当時から競争の戦略を研究されていたのですか?
僕が大学院の頃に興味をもっていたのは、競争の戦略ではなく、技術開発活動や製品開発の仕事のマネジメント、テクノロジーマネジメントに関係することでした。
順を追ってお話ししますと、まず研究者の仕事というのはすごくやることが決まっています。授業をしながら、学術書に自分の論文を投稿してその中で査読という審査をされて、通るとその雑誌に自分の論文が載り、自分の業績がひとつ増えるという、すごくフォーマットがはっきりしています。
僕が研究していた経営の分野は社会科学のひとつとしてあるんですけれども、社会的なことでも自然科学のアナロジーによって出来上がっているので、法則を探求するというか、法則を定義することがルールで。つまり、因果関係の仮説をたてて、立証するためのデータを収集し、定量化したデータをとって、統計的に検定し、仮説が支持または棄却されればそれがなぜかをディスカッションするという。
― その繰り返しをするというイメージですか?
そうです。問題の設定→仮説→データ→統計分析→結果→議論というようなフォーマットがきっちりあるわけです。これが研究だというわけなので、そのフォーマットにできるだけ則した形でテクノロジーマネジメントについて、研究開発の組織のパフォーマンスを説明する因果関係についての仮説をたててデータを取ってというのをやっていました。
ジレンマ
僕は割と小手先が器用な方で、「そういうことなんだよ」と言われれば一応はやるんですね。学会で自分の研究を発表し、学術雑誌に投稿して採択される・されないというのがあって、そういうのをやっているうちに、そのコミュニティの中でどういう風にやっていけば評価される・されないっていうのが次第にわかるようになりました。
― 要領がわかってくるということですね。
テクニックみたいになってくるんですよね。小手先の(笑)。またそれがわりと得意(笑)。それで学会で発表すれば、「よかったよ」と他の先生に言ってもらい、ジャーナルに投稿すれば、もちろん毎回ではありませんが採用されたりして、ちょこちょこと業績は増えていく。
それを3~5年やってたら、なんか手品師が「鳩が出ます、出ました。今度は何を出そうかな?」みたいな気分になってきて。やればやるほど小器用になっていくので。これはうまく続けられないかなという気がしてきてしまって。
[adchord]― ジレンマを抱えるようになってきたと。授業という部分はいかがでしたか?
授業の方はテクノロジーマネジメントではなくて、もう少し広くやらせてもらっていました。競争戦略的なこともやり始めて。
誰かの役に立たなければ仕事の意味がない
一方、この授業というものは割とストレートに意味があると思えました。というのは、アカデミックな研究というのはオーディエンスが同業者なので、BtoBなんです。学生さんへの授業というのはBtoCなんですよ。「わかった!」とか、授業に満足してもらったりすると、一般的な意味で学生さんを相手にした仕事だなと思ったんですよ。
僕は結局のところ、仕事というのは誰かのためでなければ意味がないと思っています。今までは利害関係なんて嫌だったし、集団も嫌だったので趣味的な選択をしてきたわけですが、趣味というのは自分のためにあり、自分がよければ全く問題がないけれど、仕事はそうはいかない。
趣味と仕事の違いとは
ちょっと話がそれてしまうかもしれないんですが、僕は趣味がロックバンドなんです。すごく楽しい。人に聴いてもらうともっと楽しい。でも誰も聴きに来ないんですね(笑)。なぜかというと理由は明白で、価値がないから(笑)。つまりプロじゃない。趣味なんですね、仕事になってない。やっている方が一方的に気持ち良くなるバンドなんです。
だから我々はライブ始める前に、聴きにきてくれている人たちにむかって、「犠牲者の方々に敬礼」ってやるんです(笑)つまりこれが趣味の世界。
自分以外のためになってこそ仕事だと思っていたので、授業は仕事として成り立ってるなという感じがあったのです。ところが研究の仕事は、アカデミックなコミュニティの中でやっているので、自己完結に近いのです。使命感はないとはいえ、僕としては実際に商売なり経営をしているひとの何かの役に立ちたくて研究をやっていたのですが、本当に必要な人は誰も読んでいないんですね。学術雑誌に書いてある研究内容を。
誰のためなのかが見えないと、やりがいは生まれにくい
― たしかに。学術書を手に取るのは研究者の方というイメージがあります。
魚を八百屋に買いにこないのと一緒です。もともと研究活動というのはアカデミックなコミュニティの方を向いている。ただ自然科学ですとBtoBtoCという、医学や物理といった学術的な治験はアカデミックな世界にたまっていって、それが将来応用されて、世の中に対して役立つという二段階の流れはあるんですけれども。
経営学の場合、経営者が読んでいるのはこういうビジネス書や記事とかであって、学術論文では必ずしもない。まして学術論文の蓄積が結果的に経営者に伝わることがあったとしても、誰に対してやっているのか、僕にとっては非常にわかりにくかった。もちろん学術研究としての意味はあるのですけれど、僕にとっては仕事の実感が得られなかったので、「授業は面白いけど研究の方は今一つノリが悪いなぁ」と思うようになった。
― それで現在されているような方向にシフトされていったんですか。
そうです。いくつかのきっかけがあって、学術雑誌向けの研究というのはやめて、直接的に実務の人に届くようなやり方で同じことやればいいかなと思いました。そうすると、今まで研究でやってきたテクノロジーマネジメントよりも、競争戦略の方が僕にとっても面白かったから、そちらに重点を置くようになったという流れですかね。
[adchord]そんなことで、30代の半ばくらいに、仕事のスタイルを大きく変えました。先ほどお話したようなスタイルになって二十年近くになります。回り道が長くて、自分のツボみたいなものを見つけるまで結構時間がかかった方だと思いますね。
競争戦略の考え方
― 「ストーリーとしての競争戦略」を書かれたのはいつごろでしょうか?
2010年くらいですね。僕が45歳くらいだったと思います。35~45歳くらいの間ずっと考えて授業をやったり、実務家の方々に向けてしゃべったり書いたりしてきたことをまとめた本ですね。
― これが出た当時というのは、とても衝撃的だった記憶があります。
僕にとってはいたって自然な仕事でした。僕にとってはずっと考えて話して来たことのうち、大切だと思ったことをそのまま本という形でまとめたものなので。
― 競争戦略の考え方を、僕らにもわかるようにシンプルにまとめるとどんな論理なんですか?
ロジックはものすごく単純で、競争がある中でなぜ儲かるのか儲からないのかという、その論理を考えるということです。それは、違いがあるから選ばれるということで、競争相手とは違いをつくるということが競争の戦略だというのが一番根本にある定義だと思います。
― その違いをうまく見つけ出すコツはありますか?
どうやったら違いをつくるのか、違いがあるというのはどういったことなのかというのには、多種多様なロジックがもちろんあって、そのロジックの開発というのが仕事の中核にあるのですが、探すというよりは、“気づく”という感じですかね。
現象としてこれだけ多くの産業や業界があり、情報もあふれているわけですよね。普段本を読んだり新聞を読んだりすることで、情報自体は消化しきれないほど存在しているわけですから、そこから、競争相手にそう簡単にまねされない違いとはこういうことなんだなというロジックが自分の中に生まれる。頭を動かしているだけなので、傍から見るとただ座っているようにも見える。それがこの仕事のいいところなんですけどね。
進歩はイノベーションではない
― 先生の講演を何回か聴かせていただいたときに、イノベーションのお話がものすごく面白くて印象に残っているのですが、イノベーションについて先生のお考えをお聞かせいただけますか。
何十年も前からイノベーションというものには割とはっきりした定義があって。それは非連続性というものなんですね。今、どこへいっても誰でも彼でも、朝から晩までイノベーションと言っていますが、じゃあそれってどういう意味で言っているのかと。「新しいことをやろう」みたいな意味にずいぶん歪曲されています。
わかりやすい対比でいうと、イノベーションは進歩ではないということ。進歩というのは価値の次元において連続しているわけですよ。だから、デジタルカメラの写真が綺麗になることや、スマートフォンが小さくなること、電気自動車の走行距離がどんどん伸びることというのは進歩であって、イノベーションではない。
― たしかにそこを誤解している人は多いかもしれません。
実際にそれを生み出すプロセスとかそれを実現するための経営を考えますと、進歩とイノベーションというのは実は全く違うものなのですが、今多くの人が朝から晩まで言っているイノベーションというのは大抵は進歩のことです。
本来イノベーションというのはたかだか百年くらい前に、進歩という言葉では説明つかないときにどうしても必要な言葉であり概念だった。それをごっちゃにしていると、割とトンチンカンなことが多いんじゃないかなと思います。
わかってもらうことを重視する
― その講演の時も、先生はとてもわかりやすく例をあげながら、イノベーションかそうじゃないかをオーディエンスに聴いてらっしゃいました。僕も含めみんなが進歩に対して「イノベーション!」と言っていましたね。
あっさり言えば5分で説明できることを、1時間くらいかけていつもそういう風に話をします。それはなぜかと言うと、本当にわかってもらいたいからなんです。人のためにやるのが仕事だって話でいくと、僕が話したことに対してその人が賛成か反対か、役に立つか立たないか以前に、わかってもらわないと良いも悪いもないので、わかってもらうということを非常に重視しています。
自分のツボを見つけよう
― ご自身のツボを見つけられるのに時間がかかったということなんですが、そこから「これだ!」というのを見つけたり気づいたりするためのポイントやアドバイスをお願いします。
ある程度そのことが自分に向いていて、好きなことじゃないと長続きはしないですね。だから自分の心の声によく耳を傾ければ、実はすぐにわかることで。騙し騙しやってもいつか限界は来るので。先にその限界を意識するということですかね。
自分の心の声に忠実になる
自分にはこれはどうも向いてないなと思わないと、次に何をやるのかは出てこないと思います。だから限界をしっかりと受け止める。何が自分に向いているのかなんてことは、やってみないとわからない。やってみてもわからないかもしれないけど。
僕は自分の人生しか生きたことがないのであくまで僕個人の経験になりますけど、人間ってこれは向いてなさそうだな、だからやめた方がいいなというのを見つけることが結構大切なことだなと思います。
[adchord]これはやめようと思うところから、次の試行(トライアル)が始まって、すぐにうまく見つかるケースもあれば、僕みたいに時間がかかる場合もあるけど、見つけるためにはやっぱり試行錯誤しないことには始まらないので。試行錯誤するためには、自分の心の声に忠実になることが大切じゃないかなと思いますね。
「基本的にうまくいかない」と考える
― 先生の著書の中で、先日僕らがお話を聞かせていただいた米倉誠一郎先生のことも書いてあって、米倉先生への言葉が非常に面白かったのですが。
ソリがあわないのにノリがあうってやつね(笑)。考えは違うんだけど非常に波長が合うんですよね。米倉さんと僕との違いは、米倉さんは基本的に自分は受け入れられると思っている人なんですよ。社会や他者と自分との関係の前提が、基本的に受け入れられるというのがある。それは素晴らしいことです。屈託がない。羨ましいですね。
― 楠木先生は違うんですか?
僕は、自分は受け入れられない、世の中は自分の思い通りにはならない、という前提に立っています。一般的な言い方をすると、何をやっても基本的にはうまくいかないと考える方ですね。人から打たれ強いといわれますが、それは初めからうまくいきっこないと思っているからです。
うまくいかなくても全然平気で。逆に少しでもうまくいくと、すごいうれしいんですよ。こっちのやり方の方が楽だと思うんですけどね。生き易い。ちょっとひねくれているという言い方もできるかもしれませんね。人から良くしてもらうのが非常に苦手で、人に優しくされると、あれおかしいなってなる(笑)落ち着かない。
うまくいかない時を味わう
― 僕もそういうタイプなのでわかります。幸せのハードルが低いんですよね。
そう、低いです。だからたまにいいことあるとうれしいですよね。うまくいかなかったときの味わいというものにもいいものがあるので、それを積極的に味わうことにしています。
その味わいは仕事をしていく上で、上質なものだとさえ思っていて。「負け戦 にやりと笑って 受け止める」がプロの醍醐味ですよね。うまくいってばっかりなんて絶対ないのはみんなわかっていることですから。ただ前提として、うまくいくべきであるという人と、うまくいかなくて当たり前だという人がいるということです。
[adchord]豊かな時代がペインレスを求める
― 「全部うまくいきっこないんだから」という前提で生きられる人が増えた方が、楽に生きられるんじゃないかと思います。
そうですよね。だから要は「豊かな時代」なんですよ、今は。僕もそういう時代は本や資料から間接的にしか知らないけど、人間の生活の中にはあからさまな不幸や理不尽というものがたくさんあった。子どもが高い確率で死んでしまうとか、結核みたいな病にいつなるかわからない環境だとか。
そういうものが、特に日本でなくなった今、文明の進歩ではあるんですけど、上手くいく、失敗はない、悪いことはあってはいけないという「ペインレス」な社会。そうすると、そういう上手くいかない要素を事前に除去しようとしますよね。そんな時代に、絶対うまくいかないなんて前提を持ちにくい。
「好きなようにしてください」
― 今のお話し聴いてから、著書の『好きなようにしてください』の内容を改めて思い返すと、ものすごく理解できます。さらなる納得があります。
“どうせ上手くいかないのにどうして自分の嫌なことをするの?”ということです。嫌なことして上手くいくのならそりゃそっちをとるのもありなのかもしれないけど、どうせ上手くいかないのならら、自分の好きなことをやった方が少しでも上手くいく可能性は高くなる。
僕のこういう考えは「後ろ向き考え方」と言われることもありますけれど、むしろ、“絶対上手くいかなきゃいけない”、“夢に日付をつけよう”、“絶対に夢を諦めないで”なんて時代の方がよほど窮屈だと思うのです。
品格、品格と言っている人の中に品格のある人なんて見たことないのと一緒で、成功、成功と言っている人の中に本当の意味で成功している人なんていないと思います。「何かつらいことでもあったんですか?」とか言われますけど、そのまま相手に返したい(笑)
“何をやるか”よりも、“何をやらないか“を決める
僕はそういう試行錯誤の結果自分のツボが見つかりましたので、今はずっとこのままやっていこうと思っていますが、ただ好きじゃなくてもやらなければいけないことというのはどうしてもありますよね。
だから今後の課題としては、その“好きじゃないけどやらなければいけないことをいかにやらなくていいようにするか”ということですね。これはかなり難易度高いのですが。
― 難易度高そうですね。具体的にやりたくないけどやらないといけないこととは?
大学はひとつの組織なので、日本の場合特に、中身と大学自体の経営・運営というのが分かれていないので、教授たちが実際経営の仕事もするんですよ。僕はそういうのは非常に避けけたいと思っていて。なぜなら向いていないし、能力もないしスキルもないので。
[adchord]ただ僕なんて完全に第四コーナーに差し掛かっちゃっているような年齢なので、ある程度年がいってくると、「そういうこともやりなさいよ」という話にもなってきますでしょう。それは非常に避けたい。どうしてもやらなきゃならなくなったら即座に辞めようと思っています。だからやっぱり何をやらないかを決めることはすごく大事なことですよね。
得意な人に任せる社会的な分業が、実質的貢献を生む
「やりたくない」というとちょっとセルフィッシュ(自己都合)に聞こえるかもしれないですが、仕事でやる以上、価値の受け手というか受け取る側のお客さんが必ずそこにはいるわけで、迷惑かけると思うんですよね。大学でいえば、学生や大学に勤めている他の教職員に迷惑がかかる。
やっぱりやりたくないことに対して、人はすごく無能力なんです。好きで自分でやろうと思うことじゃないと、能力が磨かれていかないし、ろくな成果が出ない。結果的に貢献はできないと思うんです。他にもできる人はいっぱいいるのだから、自分が実質的な貢献ができることだけやっておきたい。そういう意味では社会的な分業というものを僕は信じている方ですね。そこの分野で必要とされるようになると、そこで生きていくことができるわけなので、得意ではないことは得意な人に任せることの方がよほど社会貢献につながると、僕は思います。
楠木建(くすのきけん)
一橋大学大学院 国際企業戦略研究科 教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。92年一橋大学大学院商学研究科博士課程修了。一橋大学商学部助教授および同イノベーション研究センター助教授などを経て、2010年より現職。競争戦略とイノベーションを専門とし、講演も多数。著書に『ストーリーとしての競争戦略』は経営学書として異例のベストセラーとなっている。他『「好き嫌い」と経営』(ともに東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(プレジデント社)、『経営センスの論理』(新潮新書)などがある。