フォーカルジストニアという難病でピアノが弾けなくなったピアニスト。復帰リサイタルまでの23年間、何を思っていたのか。

フォーカルジストニアという難病でピアノが弾けなくなったピアニスト。復帰リサイタルまでの23年間、何を思っていたのか。

フォーカルジストニアという難病を克服し、23年というブランクをあけて復帰リサイタルを行った、佐藤ひでこさん。人生そのものだったピアノを突然奪われてしまった彼女が、20年以上の空白期間を超えてもなお、ピアノを弾き続ける原動力とは?とことん聞き取らせていただきました。

23年のブランクの理由

― 23年というブランクをあけて復帰リサイタルをされたということなんですが、このブランクの期間はどういったご状況だったのでしょうか?

3才から、東京音大で教えていた母から専門教育を受け、大学卒業後もポーランドとカナダに留学をして、ピアノを演奏することが私の人生にとって当たり前のことでしたので、帰国後の初めての練習の時に、指が動かなくなっていたのを知った時、その現実がとても信じられなく、朝目が覚めると「まだ生きている・・そのまま目がさめなかったらよかったのに。」というような気持ちの毎日でした。

 

その後は、演奏を全くできなかったのは勿論ですが、当時は原因が自分でもわからなく、「指がおかしい」と周りの音楽家や先生方に騒いでいたのですが、悩みを打ち明けた方々は全員、その不可解な指の動きにびっくりされていました。
その後、数年も経つと、私の指の問題に関しての話は自然になくなり、いつのまにか私は、「演奏家」ではなく、「ピアノの先生、審査員」という立場だけになり、いつしか私が、かつて海外で演奏していたことさえ、忘れられた年月になっていました。

フォーカル・ジストニア

その弾けない期間、音楽家の方々との会合などの時、演奏している仲間を見たりすると、私はいつも「本当は弾けるのに。頭の中では演奏できているのに。」と、悲しく辛い思いで一杯になったりしました。
当時、世の中では原因が全くわかっていなく、なにしろ20年以上・・いつ頃だったか忘れましたが、ある時インターネットで、どうやら私のこの指の症状は、「フォーカル・ジストニア」だという事を偶然知りました。
それはピアニストに限らず、ギターを弾く方や、音楽以外ではロッククライミングをされている方もなるそうですが。

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― どういった症状のご病気なんですか?

簡単に言うと、自分の意思とは関係なく指が動いてしまう、また動かそうとしても動かない、そのような病気です。
最初の症状は、ピアノを弾く時に右手の3の指が内側に巻き込んでしまいました。正常だと打鍵をした後、上に上がらないといけない指が、そのまま内側に動いてしまうのです。
当然のようにスケール(音階)なども弾けなくなりました。

皆さんもおなじみのピアノの入門書「バイエル」の1番、右手の親指と人差し指を交互に動かし、ドレドレ、と弾くのですが、その初歩の初歩でさえも、指が固まってしまい、指そのものが動かなくなっていました。
その理由・原因は、完治した今、全てがわかっていますが。

 

一般的に、ピアニストの病気は腱鞘炎が有名で、腱の使い過ぎで痛みがある、と言うのがポピュラーだと思いますが、フォーカル・ジストニアは痛みが全くないのです。

ジストニア、と言うと、一般の病気で、同じ病名のジストニアという病気があると思いますが、両方とも自分の意思と関係ない不随意運動をしてしまい、一見同じ症状が出るので同じ病名がついてしまっていますが、私は、一般的なジストニアと音楽家のジストニアは、似て非なるもの、私は全く別の病気だと思っています。

指が動かない最中のデビューリサイタル

1995年1月にトロントから帰国したのですね。帰国して2週間くらいピアノを弾かずに休養をとっていたのですが、トロントでは動いていた指が、その2週間の間に固まってしまい、動かなくなってしまっていた、というような状況で。

しかし帰国後4か月後には、東京の津田ホールでデビューリサイタルで弾かなければなりませんでした。指がおかしくなっているので、とても弾けたものではない。

いつだったかリサイタルを控えたある日、何の用事だったか電車に乗りました。その時、前に座っている人の指をみて「あぁ、正常な指だ。この人の指は、普通の動きができるんだ。私の指は、ピアノで鍛えた指のはずなのに、普通の人以下になってしまっている。私は、あの7年間、がんばってがんばり抜いたはずの外国で一体何をしていたんだろう。何もなくなってしまった。」とボロボロ涙が出てきたのを、今思い出しました。

動かない指と向き合う

私は、指が正常に動かないとわかった時、すぐ母に言いました。母は、びっくりして、まず自分の手を机の上に置いて、親指を上下に動かすしぐさをして、私に「この動きできる?」と言いました。
私は、やろうとしたけれど、全く指が動かない。私は、だまって涙をためて、首を横にふるしかありませんでした。

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母に、「もうデビューリサイタルは、どうしてもキャンセルしたい。どうしても弾けない」と言いました。
しかし母は、「どうにか弾かないと。」と。私は、もう無理だと思いましたが、思い直して「あれだけ必死にがんばって留学生活を送っていたから、とにかく、やってみよう」と。

しかし、練習は、毎日毎日、悪戦苦闘。ピアノに向かって、何をしていたかというと、リサイタルの曲目の練習どころではない、手の角度を変え、手首の高さを変え・・曲を練習すればするほど、益々動かなくなっていく指。それがジストニアの症状なのですが。そして、リサイタルのプログラムどころか、バイエルの1番に悪戦苦闘する日々。1番だけでなく、他の2本の隣り合っている指をどうにか動かそうとする日々。最小限度の労力で、どうにかリサイタルのプログラムをこなさないと・・とにかく弾ききらないと・・最低限でいい、どうにか、とにかく弾かないと、と。

デビューリサイタルの日

結果的には、手首をものすごく高い位置から、上から手首から指をつり下げている感じで、最小限の指の動きで、どうにか終わらせました。やっとです。
本番ですが、一か八かでした。当日、指の状態がどうなるかもわからない。

何とも言えない不安な気持ちのまま、舞台に突入。
最初の曲をなんとかこなし、前半の最後から2番目の曲、ショパン「バルカローレ」をなんとか弾き終えて、舞台袖に戻った時に、悟りました。
「私は、次の1部の最後に用意した曲、ショパンのアンダーテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ、だけは弾けない。」と。
この曲は、ジストニアには一番キツい、スケールやアルペジォなどが沢山出てくるのです。

私は舞台袖にいたマネージャーに「弾けないので、楽屋に戻ります」と言いました。
マネージャーは焦って、「評論家の先生もいらしているし、どうしても弾かないと。」と。
しかし、どうにもならない私の指。
メチャクチャで恥ずかしい演奏をするくらいなら、「周りからどう思われても、弾いてはいけない。」と、私の心の奥の声。自分の芸術は自分で守らないと、と思ったのです。
マネージャーの言葉も無視し、私は楽屋に逃げ込みました。
会場では、突然のアナウンス「プログラムのポロネーズは、演奏者の都合により・・」。

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評論

後日、ピアノの月刊誌「ムジカノーヴァ1995年6月号」に故佐野公男先生が評論を書いて下さいました。見出しは、「プロコフィエフ特有の肌触りの熱演で、全力投球のデビュー」
しかし、内容には「もっともこのうち〈アンダンテ・スピアナート。〉はなんの予告もなく、カットしてしまった。」(原文より)と。

また、プロコフィエフに関しては、「プロコフィエフ特有に硬質の冷たい肌触りを感ずる。しかし惜しむらくは音量の割りには作品の持つダイナミズムと厳しい緊張感が希薄なことが、作品の強靭な性格を弱めている。」(原文より)と。

「ダイナミズム」と「厳しい緊張感」が希薄になってしまった原因は、釣り上げた手首から落とした指で演奏した結果のこと、自分でもよくわかっていました。
23年間ずっと、心の奥にしまっていたモヤモヤしたもの。私はプロコフィエフを、本当はこう弾きたかった!と、今年5月の東京・浜離宮朝日ホールでの復帰リサイタルで、やっとやっと23年前の想いを遂げることができました。

佐野公男先生は、亡くなってしまいましたが、
「本当は、あの時、ジストニアで苦しかった、やっと治ったので、今回の復帰での演奏、ぜひ聴いてください!」と、佐野先生に伝えたかったな、とものすごく思っています。

そして今、ジストニアが治って、復帰リサイタルもできた。
自由に動く指も取り戻して、今は一生けん命練習ができる、練習は辛い時もあるけれど、普通の指で一生懸命練習をすることができること、普通に努力できることが、こんなに幸せなことか、と。本当に、あきらめなくてよかったと思っています。

 

フォーカル・ジストニアを発症したことに関する、自身の考察

― フォーカル・ジストニアは、精神的な病気なのでしょうか?

一般的には、精神的ストレス、睡眠不足、いろいろ言われていますが、私は違うと思っています。

簡単にわかりやすいように説明をしてみますね。
例えば、足が沢山あるムカデが、「もっともっと上手に、もっと優雅に、もっと速く歩きたい、走りたい」と、沢山ある足の中から数本を選んで、部分的に歩く、走る練習をしたとします。その部分的に練習を沢山沢山積んだ後に、一気に、よーいどん!という感じで、歩く走ったとします。その時に、足がもつれてしまって動かない。脳は、漠然と命令を出しますから。そのような感じだと私は思っています。

足を動かす全体のバランスが崩れてしまったのですね。「この足とこの足を」と倫理的な頭の考え方で、部分的に集中して何回も何回も練習をした結果、その部分練習の中に、もともとの自然な動きに反している動きが少しでもあった場合、頭と筋肉の動きが混乱をするのです。部分練習をとてつもなく沢山しているうちに、筋肉そのものが動きを覚えてしまうからだと思っています。筋肉って、記憶があって、勝手に動いてしまうものなんだ、と治った今、気がついたのですが。

筋肉の記憶って、すごいですよね。怖いくらい。人間の体の神秘です。
無理やり覚えこませた筋肉の動きと、もともと人間や生物が持っている自然な動きが反比例した時に、頭の意思と実際の動きが違う不随運動をしてしまうのだと、すっかり治った今、そう思っています。

ただ注意ですが、一般のジストニアの方の原因や対処などは、私にはわかりません。今言った意見は、音楽家のフォーカル・ジストニアに関しての私の考えなので。

健全な精神は健全な肉体に宿る

実際にものすごく悪化し、決定的に動かなくなってしまったのは、帰国後でしたが、実際的には、1989年ごろ、ワルシャワに留学をして1年目あたりから、実は、指の動きが動かしにくくなっていて、そのころからジワジワと悪化してたように感じています。

 

最近、その話を音楽と関係ない友人に話をしたところ、
「もしかして、そのころ精神的に、うつ的なところはなかった?」と質問された時に、そういえばあの頃、留学中はずっとものすごくストイックな環境で、ストイックな練習をしていたな。あまり明るい気持ちもなく、ただただ練習練習、ある程度研鑽を積まないと、絶対に日本には帰れない、と崖っぷちの毎日だったし、当時、ベルリンの壁が壊れる前後で、生活そのものも切羽詰まっていたし、うつ的と言えば、うつ的な状態だったような気もしています。

やはり、練習の方向性も、うつ的な状態だと正しい方向には向いて行かない、健全な考えは健全な肉体があって出てくるもの、健全な精神は健全な肉体に宿る、ではないですが、芸術も学問なども全てに共通していることだと思いますが、健全な状態がベースにある時、初めて過去の苦しみを出せる、表現できるのでは、と思っています。
それには、過去に経験した苦しみや病んだ記憶も必須だとは思いますが。

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このまま目が覚めなければいいと毎晩願った

― 発病されたのはおいくつのとき?

1995年1月なので、32歳の時です。
毎朝、目が覚めるといつも「あぁ。まだ生きていたんだ。」と自分の右手の動きを確かめてみる。そして思うように動かない、と自覚した後、「なんでまだ生きているんだろう。昨日寝てから、そのまま永遠に目が覚めなければよかったのに。」と。
そんな朝が毎日毎日、4月28日津田ホールでのデビューリサイタルが終わった日まで、約4か月間、続きました。

― 治療的なことはされたのですか?

はい。結果的に私は、お灸や鍼や漢方薬、整体などを試し、横浜市立大学附属市民総合医療センターの長谷川修先生の診察も1回受けてみました。
帰国後、「指がおかしい」とものすごく騒いでいましたので、ピアニストの岩崎淑先生や、その他ピアノの先生方も親身になって相談にのってくれました。

デビューリサイタルの後は、数か月も経てば治るだろう、と安易な気持ちで、その年の12月沖縄ムーンビーチミュージックキャンプ&フェスティバル(現、沖縄国際音楽祭)でメンデルスゾーンのピアノ6重奏を演奏する予定もたててしまいました。結果的には沖縄まで行きましたが、やはり演奏はできませんでした。沖縄に発つ前の日も、「明日になれば、治るかもしれない」と、そのような状態でした。

沖縄のフェスティバルでは、ギタリストの福田進一先生からお灸の先生を御存じの方を紹介していただいたり、チェリストの岩崎洸先生やイタリアのミラノ音楽院のヴィンチェンツォ・バルザーニ先生にも症状を見ていただいて相談にのってもらいました。
先生方、私の指のおかしな動きを見て、「なんで、そんな動きになってしまうのだろう。」と不思議そうな顔をして真っ青になっていらっしゃいました。

アメリカに野球選手をオペで治す先生がいるから、と薦めてくださいましたが怖かったのもあって、もし失敗したらと、やはり治すのはオペではないような、と私の感でしたが。当時、私は、専門の医学書を読みあさって、私のその手の部分は、「ノーマンズランド」と言われている手のひらの場所も入っていましたので。

私は、とりあえずの漢方とお灸と鍼をやってみました。またマッサージやヨガなども。でも、全くよくならなかったので、次第に治療から遠ざかっていきました。
横浜市大の長谷川先生のところには、確か10年くらい前だったか、よく覚えていないのですが、結構よくなってから行きました。
ピアニストの友人が、やはり留学中ジストニアになって、長谷川先生で治った、と教えてくれたからです。長谷川先生には、「間違った方向に行ってしまった道を、もう一回引き返して間違った分岐点まで戻るのです。」などとアドバイスを頂き、それは、ものすごく治すことに役立ちました。

 

ピアノとの歩み

― 留学されていたころはどんな風に過ごされていたのですか?

私がワルシャワに留学をしたのが1988年秋なので、当時はまだベルリンの壁が壊れていなく、社会主義国の時代でした。
実は幼少期、私はピアノがあまり好きではなく、母から無理やりやらされていた、と言う意識であまり真面目には練習していなかったのです。

まず母から手ほどきを受けたのですが、数年経つと母の指導をきかなくなったそうで別の先生へ、ということで、小学校2年生から桐朋学園子供のための音楽教室に通うことになったのですが、実はピアノのよさがわからず小6でピアノをやめました。次の年、井口愛子先生が桐朋学園から東京音大に移られたのをきっかけに、中2で東京音大付属音楽教室に入室をし、またピアノを弾き始め、そのまま東京音大付属高校に入学し愛子先生などの指導で、全日本学生音楽コンクール(毎日新聞社主催、NHK後援)を目指していたのですが、ノイローゼ状態になり、ピアノ演奏家コースを高1で中退しました。

ピアノと高校をやめた後も、精神状態がすぐれなく、他の高校に2校行きましたが、夜中に目がさえて明け方まで眠れなく、不眠状態が続き、やっと眠れるのが明け方。学校に行かなければならない時間に起きれなくて、学校にも行けなくて、その2校も中退。

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空手が、またピアノへの灯をつける

父が体を動かした方がいい、と父や弟が通っていた剛柔流空手道に通うことを勧められ、空手をはじめて、体を動かすことにめざめ、高校は学年より2年遅れて日本女子体育大学附属二階堂高校を卒業しました。週3回の空手道で、高3になった時は心身ともにすっかり健康になったせいか、やっぱりピアノをやろう!と元気になり、また東京音大を受験することを急に決め、高校卒業後すぐに進学しました。

しかし、入学してもまだピアノはあまり好きにはなれませんでした。そのような状態でしたが、何かのきっかけで、忘れもしない大学1年の12月、1980年にショパンピアノ国際コンクールで優勝をしたベトナム人ピアニストのダン・タイ・ソンの演奏会に行きました。ショパンのピアノコンチェルトの1番と2番でした。
そこで、ピアノの音色とは、こんなに美しいものだったのか、音楽とは、こんなに素晴らしく心に響くものだったのか、とすっかり目覚めたのです。

 

ソ連留学への想い

その演奏会のあと、すっかり私は、ダン・タイ・ソンの留学先である、当時ソ連のモスクワ音楽院に留学したい、という気持ちになっていました。旧ソ連時代、オリンピックでも金メダルをバンバンとっていたソ連。私は、もうソ連でピアノを研鑽するしかない、と。
当時のソ連のピアニストやピアノの教授たちは、ユダヤ人が多かったみたいで、私は、当時のモスクワ音楽院は、教授や生徒、共に世界最高レベルだったと今でも思っています。
東京音大もすぐにでもやめて、ソ連で勉強したい、と両親や井口愛子先生にも相談しましたが、大学中退してのソ連留学は大反対されました。日本の大学くらいは卒業しなさい、と。

そのようにソ連への想いが強かったのですが、その後モスクワ音楽院には縁がなく、1985年12月、大学3年の冬、白ロシア共和国立ミンスク音楽院に行くことができ、そこで、後にトロント留学でお世話になった、ロシア巨匠エミール・ギレリスの愛弟子のナターリア・チョムキーナ教授と出会いました。ミンスク音楽院は短期でしたが、そのままソ連への想いを抱いたまま、その後、大学在学中は、ソ連へ留学するためにチョムキーナ教授からのミンスク音楽院への招待状を持って、当時の狸穴(マミアナ)のソ連大使館へ通い、どうにかソ連へ留学できないか、と文化担当の方のところに通い、相談し続けました。

その結果、どうにかソ連へ留学する道がついたのですが「ソ連へ留学して何かあった時に日本に帰ってこれなくなると大変だ」と父が大反対しました。
そのような状況のなか、ワルシャワには2年後にショパン国際ピアノコンクールも開かれるし、ポーランド・ワルシャワのショパンアカデミーに留学する縁ができました。

過酷な環境だった留学時代

最初の頃は楽しめていたつもりの留学生活でしたが、やはり大変でした。1988年の年があけて1989年が春になりかけたころ、なぜか街のお店が次々と閉まっていき、もともとお肉屋さんなどにお肉などがほとんどみあたらなかった1988年冬よりも、もっとお店に物がなくなっていきました。

自分では、「これが社会主義国なのかな」と、トンチンカンなことを考えていましたが、その状況が、ベルリンの壁が壊れる前触れで、国の状況が不安定になりはじめていた時期だったのです。
私は、ソ連の音楽家やスポーツ選手たち勝負の強さを、どうしても知りたかったので、当時のお金で「1ズオティ=1円」で換算し、西側諸国の人の金銭感覚ではなく、ポーランド人やロシア人と同じ金銭価格で奨学金を使い、暮らしました。

西側の人間は、外貨を持っているので外貨ショップで、日本の金銭感覚と同じ価値で買い物ができるのですが、私は、その強さをどうしても知りたかったので、ポーランドの人々と同じように、トイレットペーパーを買うのでさえ、零下10度の中、約4~5時間も行列して並び、しかし「前の人で売り切れ!」「練習時間取れず!」などという生活からして過酷な状況で生活をしながら、ピアノの研鑽を積んでいました。

音楽院でのレッスンの時、アシスタントの先生に「なんで練習できていないの?」と聞かれ、「まさかトイレットペーパーを買うのに並んでいたから。」などとは言えない、と思いながら、何も答えられずに、ただただ涙があふれてくるばかり。ピアノの鍵盤がどんどん涙でにじんできて、ひざに涙がボロボロ落ちていく。アシスタントと私との沈黙の時間がどれくらい経っただろう。私は、思いきって、こんな理由では。と思いながら、感極まって「トイレットペーパーを買うのに並んでいて練習できませんでした。」と、やっとの思いで言いました。すると、アシスタントは、「あぁ、そうだったのか。」と簡単に納得して、練習不足を許してくれました。日本の音大では、練習不足の言い訳など言ってはならないし、通用もしないのですが、そのような言い訳が簡単に通じたことに、ものすごくびっくりしました。

また、寝ているときに、ふと「寒いな」と目を覚ますと、アパートのゆるい窓の鍵が原因で、窓が開いていて、温度計を見ると部屋の中は、零下10度。
留学時代の仲間には有名な話みたいですが、市場でニワトリを買ってきて、〆てお腹にあった卵と親子どんぶりにして食べてしまったこと。ワジェンキ公園の泳いでいるカモも、何と美味しそうに見えていたか。
お風呂のお湯をわかすタンクが壊れてしまい、修理する人を頼んだけれど、うまく修理できなく、確か6か月はお風呂に入れなく、勿論シャワーも浴びれなく、キッチンでお湯をわかして、髪の毛を洗ったり、体をふいたり。

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環境と、健全な精神状態

余談が多くなりましたが、そのような生活をしていたからなのか、やっぱり体調や精神状態もあまりよくなかったと思います。
必死に練習をしていたことはしていたのですが、やはりワルシャワに留学をして2年目くらいから、ジワジワと指の状態が、少しづつ弾くにくくなってきていたと思います。

現在わかったことは、もしも日本人で生まれ育ったなら、極度に過酷な状況に自分をおいても、健全な精神状態は保てないし、むしろ良い方向には行かない。ソ連の奏法を習得したいから、ソ連風に生活をするのではなく、日本人なりに習得すればよかったのです。そこで、やはり、「健全な精神は健全な肉体に宿る」です。本当に心底、勉強したかったら、それを習得したかったら、健全なる精神状態でなければ、横道にずれる、ということです。判断力が鈍りますから。

結果的には、ロシアン奏法を命がけで勉強をしてきて、ロシアン奏法と自分独自の奏法を結びつけることもできて、ずっと頭の中にあった知識や経験も、ジストニアが治ったことで、2018年5月の浜離宮朝日ホールでの復帰リサイタルなどでお披露目することができたので、よかったのですが。

ロシアン奏法を基盤に、そこに独自の奏法を取り入れて開発した奏法は、特にプロコフィエフのピアノソナタ第6番の1楽章での演奏時に、はっきりわかると思います。僧帽筋を使いテコの原理を使った合理的な奏法ですが、今まで頑張ってきて本当に良かったな、と心底思っています。
もしもジストニアが一生治らなかったら、研鑽を積んできたことが、全く表にでないで死んでいく、ということになったと思うので、本当に嬉しいです。

 

― イメージだとスポ根的に、「厳しい環境の下やる」というのがプラスに働くイメージもなくはありませんが、違うのですね。

厳しい環境と言ってもレベルがあると思います。甘えた緩んだ気持ちでは、練習も本気にはならないですよね。日本には「ハングリー精神」という言葉がありますが、現在どれだけストイックに頑張っているかにより、その言葉が必要になるのではないかと思います。厳しい環境、と言ってもいろいろな段階のレベルにがあると思いますので。健康を壊してまで、精神不安定になってまで、自らを極度な限界値まで追い込んでも、良い方向には行かないということです。
理性的に良い状況を判断する力、そして、それをアドバイスしてくれる人が近くにいればよかったのですが。なかなか難しいですよね。

指が回復するまで

― 病気の回復に時間はかかりましたか?

ものすごくかかりました。約21年間です。
当初は、もうどうしたらよいかわからなく、もう弾くことをあきらめなければなりませんでした。あきらめなければと言うよりも、弾けなくなってしまったので、あきらめるも何もないのですが。

この病気は、あと少しで良くなりそうと感じても、数年単位でしか変化していかなく、また、だんだんと良くなっていくという治り方でもなく、患部が移っていくのです。
先ほどもお話したと思いますが、まず最初に右手の中指が内側に巻き込んでしまい、その状態が数年続きました。親指も動かなくなっていました。まず、私は中指をどうにか弾いた後、意識的に上に行くように鍵盤上でリハビリ(練習かな?)をよくしていました。

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そのように中指ばかりに意識を持っていって治そうとしていたら、たぶん15年くらい前だったか、今度は中指は少しは上に上がり正常に近くなっていったのですが、次はいつのまにか、親指が内側に巻き込んでしまうようになってしまいました。患部が移動していったのです。元ジストニアのピアニストの友人も「患部は移動する」と言っていたので、同じだな、と思いました。現在、完治したから言えることなのですが、なぜ患部が移動したのか原因もよくわかっています。

また症状ですが、一番悪化していた時はコップも持てなくなっていました。「コップを持つ」という動作は、まず指を外側に広げなければ、「つかむ前」の形になりませんよね。「コップを持とう」と漠然と考えて、無意識に手をコップのそばにもっていっても、中指がまるまったままで、ひらかないのです。なので、「よいしょ!」と中指を開くことに集中するのです。そこで初めてコップを持てる形ができるのです。それでつかんでいました。

また、髪の毛を後ろに束ねようとするときにも、中指が丸まったまま。この動作も、やっぱり「よいしょ!」と、中指を外側に開くことを意識的に行います。ゆっくりと意識的に行えば、中指は開くのです。漠然とした命令に対して、動かなくなってしまっているのです。なので、完治まで導いた最初の鍵盤リハビリも、ものすごくゆっくりと動かしていきました。

鍵盤上のリハビリ

― どういった治療で結果的に改善していったのですか?

結果的に治したすべは、主に鍵盤上のリハビリです。
そして気が付いたら、いつも肩が上に上がっていて、肩から首にかけて、顎など、体の頭から指先まで全てに余計な力が入っていました。なので、意識的に体の余計な力を抜くようにすることや、ストレッチなどもしました。
また知らないうちに、ついてはいけない部分に筋肉もついてしまったような気がしていました。ジストニアになる前やジストニアになってから、間違った練習をしてついてしまった筋肉だと思っています。その筋肉は、本来つけなければならない筋肉の邪魔になると思い、落とした方が良いのでは、との推測からです。結果的に落としました。どうやって落としたのか、とよく聞かれますが、ただ、ピアノを弾かなかっただけです(笑)

 

また、完治間近の時期に感じたことですが、手の内側の筋が、縮こまってしまっていたような感じもしていました。なので、内側のスジを伸ばすことも、鍵盤上のストレッチに取り入れたりしました。正常な状態の左手の内側のスジはひっかからないのに、ジストニアの右手を、正常な左手と同じように伸ばすと、右手は腱が縮こまっているような感じで、ひっかかる。その時「あっ、筋がかたまっているんだ」と感じて、伸ばすようにストレッチをしていました。

また、鍵盤上の特殊なリハビリに関しては「ピアノを弾く」と言う専門分野の領域で、鍵盤がないので、ここでのお話では難しいです。
また、これはとても重要なことなのですが、「もともと人間が持っている自然な動き」を取り戻すことが、完治につながるという事です。幼い頃、ピアノを無意識に弾いていた動きを思い出すと言うか、もともとの運動神経を自然な状態にする、ということです。

情報がなかった故に苦しんだ

― そういった症状がでているピアニストさんというのは結構いらっしゃるのでしょうか?

はい、沢山いらっしゃると思います。最近はネットが普及しているので、ジストニアのピアニストが沢山いるという情報はすぐに入ってくると思うし、今では沢山の人たちがジストニアのことを知っていると思います。私が発病した時代は、まだインターネットも普及していなかったので、当時「指がおかしい」ということをわかってくれる人は、ジストニアが治った留学していた時の友人くらいでした。

また、約2年前にイタリアでお世話になったミラノの元ベルディ音楽院のヴィンチェンツォ・バルザーニ先生と約23年ぶりで日本の某所でお目にかかり、お話をする機会を得ました。
23年前の沖縄での私のひきつった指のことを、「ヒデコのあの時の、あの症状はジストニアだったのだね」と、おっしゃっていました。当時は、世の中で全く知れ渡っていませんでした。そして先生は、「ジストニアは、イタリアだけでなくヨーロッパ各地でも悩んでいるピアニストは沢山いる」とおっしゃっていました。
フォーカル・ジストニアは、ピアニストだけではなくギタリストの指の巻き込み、声楽の方の喉のひきつり、などでも起こっている方がいるそうです。

人になかなか伝えられない病気

― 周りへ伝えるというのはやはりなかなか難しいことでしたか?

はい。当時は知れ渡っている病気ではなかったので、とても難しかったです。周りの人たちに相談をしても、「なぜ、そんな動きになるのだろう」と首をかしげるだけでした。精神的なものだとか、気のせい、睡眠不足なのではないか、などいろいろ意見をいただきましたが、私はそうではないと思っていました。誰にもわかってもらえず1人で苦しみ悩んでいました。

一方、最近では、音楽家のフォーカル・ジストニアは何百年前の時代からあったと言われてきていて、音楽家は人知れず悩んできたと思います。
噂ですが、作曲家のロベルト・シューマンも、ジストニアだったのではないか、と聞いたこともあります。シューマンが指を壊したことは有名ですが、治すために指を生肉につけたとか。(笑)

 

音楽を一切絶った療養期間

― 弾きたいのに弾けない、というのはつらいことだったでしょうね。

はい。想像も絶するくらい辛かったです。どのような解釈で弾こうかとか、音色、フレージングは?とか、よく考えていて、頭の中では弾けているのですが、いざピアノの鍵盤や、机など、土台に指を乗せようとすると、指や手首が不随意運動をしてしまう。手を空中でピアノを弾く動作をした時は、土台がないので普通に動くのですが。
友人たちと話をする時も、なるべく演奏や音楽のことについては話をしないようにしていました。辛いので。また、クラシック音楽の専門の雑誌もあるのですが、それも辛すぎて一切読めませんでした。ジストニアになった23年前から治るまでは、いろいろなことをずっと封印をしていました。

弾かずに熟成された自分の中の音楽

弾きたくても弾けなかった約21年間ですが、その間、間違ってついてしまった筋肉を落としたりしていて全く鍵盤を触っていなかった時期や、鍵盤リハビリの時期などがあり、実際ピアノで曲を練習していた時期は、治ってからの最後の約2年間でした。鍵盤リハビリをする時も、ピアノを使っていましたが、実際に曲を練習するわけではないのです。しかし、いつも頭の中では、「ここの部分をどうやって弾こうか、あそこの部分は、こうやって弾きたい」と考えていました。ワルシャワやトロントで学んできたものが、その長い間の期間の間で、自分の中で、知らないうちに熟成されていました。

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― 身体が弾けないときでも頭の中では演奏されていたのですね。

はい。よく頭の中に音楽が出てきて練習をしていました。街の中でも、モーツァルトやショパンの曲などが流れてくる時がありますよね。
そのような時、よく「私だったら、どのように弾くかな」と、細かいところまで考えていました。解釈やフレージング、テンポ、音色などなど。そして、頭の中で練習が始まる(笑)
それが、21年間、実際のピアノで練習していなくても今の熟成につながったのだと感じています。

治ったら熟成するとは全く思っていなく、すっかり元の状態に戻る、と思っていたので、「弾いていなくても熟成されていた」ということは、自分でも思いがけないことでした。

自分の中で溢れる音楽を表現したい

ジストニアが治り、実際に復帰準備をしていた頃、曲の練習も半ばにさしかかるちょっと前あたりに気が付いたのですが、全てが自分の内部で熟成されて、がむしゃらに学んできて頭の中がゴチャゴチャしていたものが、全て整理されて消化されて、私としては満足が行く奏法や、曲の解釈がはっきりと表に出てきた、という感じです。苦しんだ期間は無駄ではなかったということ。
それと同時に、今まで心や頭、気持ちの中にあったものが、やっと表に出せる、という開放された気持ちが一気に溢れてきました。

― 佐藤さんが20年以上もピアノを弾けずにいたにもかかわらず、続けられた原動力はなんだったんでしょうか。

それは、自分の中にある音楽芸術を表現したい、感性を思いっきり外に表現したかったからです。言葉では言い表せない感覚なので、私にとって「演奏」をすること以外、表現の手段がなかったからです。「自分の内部にあるものを、表現しないまま、熟成させないまま、そのまま人生を終わらせる」ことになるのは、私にとってとても悲しいことだったからです。

復帰リサイタルのこと

― 復帰リサイタルはいかがでしたか?

鍵盤上のリハビリを本格的に始めて、その延長線上にリサイタルをする、ということが自然にあったので、復帰リサイタルをすることは自分にとっては当たり前のことでした。しかし、周りの人たちにとっては急なことだったので、皆とてもビックリしていました。
なにしろ23年ぶりでしたので、普通に考えれば、筋肉も低下していて弾けないだろう、と思うのは当たり前のことなのですよね。
弾けるからリサイタルをするのであって、自分にとってはごくごく自然なことだったのですが、周りの人たちに、なかなか「弾ける」ということを認識してもらえなかったので、それが少し辛かったような気がします。

ある先生に「あなたは充分復活したのだから、何も言わずにチラシを渡して、とにかく演奏会で聴いてもらえばいい」との助言を頂き、少し楽になったのですが、やはり周りは、素直に「復活してリサイタルをするのか」そのまま受け取るよりも、一瞬何が起きたのかと考えてしまいますよね。23年ぶりで急な話でしたから、当たり前ですよね。

弾いてみて見つけたブランク

一言で、「ピアニストにとってのブランク」と言うと、すぐに「筋肉の衰え」が思い浮かんでくると思いますが、「長年、舞台で演奏をしていなかったブランク」は、筋肉問題とは違うところにありました。
実際私も、復帰リサイタルをする前は、「長年のブランクは、筋肉にある」と思いこんでいました。しかし、筋肉問題が解決していく毎に、そして本番が近づいていく毎に、「これがブランクなんだ」と感じることが、少しずつ出てきました。

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― それは何ですか?

自分でもとても意外だったのですが、本番に向けての練習の仕方、もって行き方などです。帰国してからずっと生徒たちを教えてきたので、そんな基本的なことは忘れるはずない、と自分でも思っていたのですが、自分独自の練習方法などはすっかり忘れていました。
また、当日の本番までの行動。本番をとりまく事柄などなど。計5回の復帰リサイタルを終えて、たぶん今は、すっかり全部思い出していると思いますが。

自分の音楽に没頭し、できる限りの表現を

― 23年ぶりに人前で弾いたときの感情はいかがでしたか?

リサイタルの前も本番も、もう感情というよりも必死でした。とにかく自分で満足がいく演奏ができるかどうか、どれだけ今まで培ってきた感性を表現できるか、のみでした。
奏でている音にできる限り集中して、自分の音楽に没頭して、できる限りの表現をする。本番では、それだけでした。

 

先程もお話しをしましたが、リサイタルは「ジストニアが治ったから復帰リサイタルをしたい」ということではなく、鍵盤リハビリの延長線上に「リサイタルをすること」が自然にあったので、全てのリサイタルが終わった後、はじめて「全部やりとげた」という達成感を感じました。

メインリサイタルの浜離宮朝日ホールが終わったあと数週間は、なんだかボーっとして、本当に終わったのだか、終わっていないのだか。という感じでした。本当にジストニアが治ってリサイタルをした、というのが夢の中の出来事のような、おかしな感覚がありました。なにしろあまりにも長い期間、弾けなかったのですから。

100歳を過ぎても現役で

― 今後こんなことをやっていきたいということや、次の目標はありますか?

生きているうちに、自分の中にある音楽芸術を表現、感性を熟成させて思いっきり表現していきたい、ということです。自分の持っているものが、どこまで伸びて、どこまでこの世に残していけるか、ということだけを考えています。

ホルショフスキーというポーランド出身のピアニストがいたのですが、99歳まで現役で公開演奏会をしています。私は、いつまで生きられるかわかりませんが、生きている限りピアノで表現、弾いていきたいと思っています。曲目も、これはあくまでも理想ですが、静かな内面的な曲だけでなく、プロコフィエフのソナタなど、しっかりとした筋肉が必要な曲も、できたら弾いていきたいな、と。すごい理想なのですが。(笑)

なので、骨も筋肉もしっかりしていないといけないですよね。筋肉の話で最近聞いたことですが、若い時からいつも筋肉を訓練していれば100才過ぎても伸びるらしいです。
それが叶えられるように、まず日常生活で健康には、ものすごく気をつけています。

音楽が表現するこころを聴きにきてほしい

― クラシックというものへの思いがあればお聞かせください。

私が小さい頃、クラシックやピアノがあまり好きではなかったように、やっぱりクラシックって、一般的には、あまりとっつきの良いものではないのですよね。
しかし、クラシックには、不思議な魔力のようなものがあります。
形がないものなので、実際に目には見えるものでもないし、手などへの感触もないのですが、究極的な美しさ、幸福感、楽しさ、悲しみ、苦しみ、絶望感などなど、人間の持っている第六感も含めて、人間の奥底にあるいろいろなものを、感じることができるものだと思っています。クラシックを聴いて得られる精神の高揚などを、いろいろな方々に、ぜひ体感してほしいと思っています。

作曲家によって、音符そのものではなく音の裏にある「何か」を表現する作品もあったりします。音や感性でしか表せられないものもあるので、1人でも多くの方々に聴いて頂いて、音楽だからこそお伝えすることのできるたくさんの感情、感覚を受け取って感じていただけたら嬉しいなと思っています。

日本での次回のリサイタルでは、前回好評だった曲をアンコールで演奏する予定です。
今までクラシックの演奏会にいらしたことのない方々にも、気軽にリサイタルにいらしていただき、その「何か」を感じて頂ければ嬉しいです。
今後の演奏会の予定なども、HPにアップしていきますので、御覧いただけたら嬉しいです。

ホームページ http://hidekosato.com
衣装協力 平塚とよしま
協力 赤坂ベヒシュタインサロン

【略歴】
佐藤ひでこ / 東京・代々木で生まれ育つ
3才より元東京音大ピアノ科講師(昭和36―54年)の母からピアノの専門教育を受け、小2から桐朋学園子供のための音楽教室に入室したが、小さい頃からピアノが好きになれなく小6でやめる。中2になり、またピアノを再開。東京音大附属音楽教室に入室。そのまま東京音大付属高校へ進学し、高1の時、井口愛子門下で全日本学生音楽コンクール(毎日新聞社主催・NHK後援)を目指していたが、ノイローゼ状態になり附属高校ピアノ演奏家コースを1年で中退。その後、夜目が冴えて朝起きれない、などの状態が続き、別の高校2校に編入するがいずれも中退。父が心配し体を動かした方が良いとのことで、父と弟が通っていた剛柔流空手道に通うようになり体育に目覚める。

日本女子体育大学付属二階堂高校2年編入。高3の時、やはりピアノを再開することを決め、同校卒業後すぐに東京音大ピアノ科入学。大学1年の冬、1980年ワルシャワのショパン国際ピアノコンクール優勝者のベトナムのピアニスト、ダン・タイ・ソンのショパンピアノ協奏曲第1番と2番を聴き、「ピアノとはこんなに美しい響きで、心にくるものだったのか」と、すっかりピアノの魅力に感動し、ダン・タイ・ソンの留学先のソ連への留学を決意する。1985年大3の冬、旧ソビエト連邦白ロシア共和国ミンスク音楽院に行くことができ、ソ連巨匠エミール・ギレリス門下のナターリア・チョムキーナ氏に師事し日露交換コンサートで演奏。その後、チョムキーナ氏からミンスク音楽院入学の招待状をもらう。しかし当時、ソ連は鉄のカーテンの奥にあり、日本との公式な留学制度がなかったので留学は非常に困難だった。しかし日本人が留学をした前例もあることから、どうしてもソ連へ、との思いで、東京・狸穴のソ連大使館へ通いつめ留学方法を知るが、父が大反対。

そのような状況のなか、隣の国、ショパン国際ピアノコンクールも開催されるポーランドのワルシャワ・ショパンアカデミーに縁があり留学を決めた。留学数か月前には、霧島国際音楽祭に参加し、ダン・タイ・ソンから、モーツァルト・ピアノソナタK333,第3楽章を演奏をした時に「Oh ! Genius !との発言で、その演奏を聴きに部屋に入りきれないくらいの音楽祭参加者が集まった。霧島国際音楽祭賞の候補の話がでたが暗譜をしていなかったので却下となった。

音楽祭後「You have a quit unordinary talent, most of all I like your natural way of feeling of music, and the Europian style of playing !」と手紙で評された。その後、ポーランド国立ショパンアカデミー(旧ワルシャワ音楽院)に留学するも、ソ連への憧れが消えなく、ソ連巨匠ゲンリッヒ・ネイガウス門下であるイリーナ・スィヤウヴィーバ氏の下で研鑽を積むため、ショパン音楽院Postgraduate1年修了後、ポーランド国立クラコフ音楽院に転校しPostgraduate2年修了。その間クラコフ音楽院でオールショパンプログラムでリサイタルを行う。

1988~1994年まではポーランドで研鑽を積み、その間、ザルツブルグやハンブルグなどで、ダン・タイ・ソン氏やディミトリー・バシュキーロフなどからロシアン奏法を勉強する。放射能の影響で白ロシア共和国のミンスクからトロントに移民したナターリア・チョムキーナ氏の内弟子として1994年~1995年トロントで研鑽を、モントリオールでダン・タイ・ソン氏のもとで研鑽を積む。1995年イタリア・カントゥ国際ピアノ協奏曲コンクールでディプロマ。またヴィオッティ・ヴァルセジア国際コンクールガラコンサートにて、ルーマニア国立クライウコーヴァ交響楽団とショパンピアノ協奏曲第2番を演奏。バルセジア国際アカデミーでは岩崎淑、ヴィンチェンツォ・バルザーニ氏に師事しディプロマ取得。

1989年あたりから少しずつ具合の悪くなっていた右手、ついに1995年1月帰国直後フォーカル・ジストニア発症。指が不随意運動や部分的に動かなくなったが、日本フィリップスなどの後援、ダン・タイ・ソンから「Good Luck with your debut concert!」(プログラムに記載)などの祝辞を受け、4月津田ホール(東京)、大泉町文化むら大ホール(群馬)、新発田市民会館(新潟)で、なんとかデビューリサイタルをこなす。

同年、霧島国際音楽祭にてレギナ・スメンジャンカ氏の通訳をする。その後23年間、ジストニアのため演奏活動は一切休止し、東京音大付属音楽教室ピアノ科で後進の指導にあたったり、コンクールの審査などを行っていた。それまで、オーケストラとの共演は、他にオヴィディオ・バラン指揮ルーマニア国立ヴァカウ交響楽団と共演している。
長年をかけて少しずつよくなっていたフォーカル・ジストニアは、人間の自然な動きを重視した考えを根本におき、主に鍵盤リハビリで2016年初頭、奇跡的に完治し。

約2年間の猛練習の末、2018年3月すみだチェリーホールを皮切りに、4月藤沢市民会館大ホール、赤坂ベヒシュタインサロン、5月浜離宮朝日ホールで復帰リサイタルを開催。
クラシック音楽月刊誌「ムジカノーヴァ」「ショパン」「音楽現代」にて評論家の先生方から高評価を受ける。(ホームページhttp://hidekosato.com/をご覧下さい)

聴衆からの感想は、「涙が止まらなかった(ベートーヴェン)
「なにかスピリチュアルなものを感じた(ベートーヴェン)
「ピアノで想いを伝えられる力が素晴らしい」「ピアノであそこまで表現できるとは」「音の美しさ、透明感に感動した」「美しい心のうたのようだ(シューベルト)」「自然な流れのある演奏
「繊細と激しさなど対照的なものを同時に持った演奏家だ(プロコフィエフ)
「あまりの激しさで胸がドキドキ興奮した(プロコフィエフ)」「ロシアン奏法の秘訣を知りたい(プロコフィエフ)
「抜群のリズム感(ドビュッシー)」「ピアノとはこんなに多彩な音を奏でるものであったか」「作曲家によって別人みたいになる」「勇気づけられた」「全くブランクを感じさせない」「23年ぶりとは思えない」などなど。

2018年10月村中大祐氏(指揮者)主催の海外で活躍したいピアニストの為のオーディション「AfiAピアニストオーディション2018」にて、イタリア・トスカーナ音楽祭の一環ピストイアでのセミナー付き演奏権利を得て、2019年9月ピストイアで演奏予定。村中氏からプロコフィエフ・ソナタ第6番第1楽章を「リヒテルに勝るとも劣らない演奏」と評された。2020年初頭、東京、神奈川などでリサイタル開催予定。

元東京音大付属音楽教室ピアノ科助手、ピティナ・ピアノコンペティション/東京国際ピアノコンクール/全日本ジュニアクラシック音楽コンクール審査員、ピティナ・ピアノステップアドバイザー、(公社)日本演奏連盟正会員、(一社)全日本ピアノ指導者協会正会員及びフェステバル実行委員、(一社)日本作家クラブ会員